これが、歴史が、時代に課した要請であるならば、我々は、誰一人として「否」という権利を、あるは能力を有していない。
 我々に可能なのは、ただ一つ、「諾」という返答のみだ。
 それが、たとえ、どのような不条理であろうと、どのように許し難い過誤により発生した事象であろうと、我々に可能なのは、それを受け容れる事のみだ。

 ただ、思弁的現実と、社会的現実とのレベルの混同は、厳然と区別されねばならない。
 我々が、「諾」というのは、時代に課された要請のみであり、社会的な現実に課された理不尽についてではない。

 いくつものレベルの混同、非論理的思考のもたらす災厄についても、注意深く見守っていかねばならない。

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高原の村

 東北の高原の冬は、ただ、凍みる。
 奥羽山脈付近で湿度を雪に変えた寒気は、冷たく乾いた空気となって、太平洋間近の高地を覆う。
 積雪量がさほど多くない代わりに、雪に覆われない大地は凍てつき、人の手が入る事を拒む。
 厚く凍った地面は、金属のツルハシでさえ、はじきとばす。

 暗い部屋の土間に、カッカと薪ストーブが燃えている。
 粗末な部屋に見合った、粗末な薪ストーブだ。
 ストーブの上には、いつも何かしら鍋が置かれていた。
 鍋で煮られているのは、芋のような野菜のような、あるいはお粥のような、今となってははっきりと思い出せない。
 ただ、子供が楽しみにするようなものでなかったことは確かだ。
 薪ストーブを囲むように、上がり框がしつらえられ、そこに腰掛けている間だけは、束の間、寒さを忘れる事ができる。
 長方形の鉄製のストーブは、薪をくべる分だけ、熱を帯びる。
 ふと指が触れれば、痛みと熱さが同時に襲ってくる。

 かんかちしたのが、もごいこと。
 どれ、ばっぱがなめてやっから。

 ばっぱが痛む指をそっと口に含む。
 とおいとおい記憶の奥で、もう、それが現実であったかどうかも定かでない。
 けれど、その触感だけが妙に現実味をもって思い出される。 

 決して明るいとは言い難い、天井の張られていない居間には掘コタツ、奥には餅飾りがあった。
 上は、中二階のような構造となっていて、昔は蚕でも飼っていたのかも知れない。
 当時はもう使われておらず、ただ暗闇だけを湛えていた。
 堀コタツの足下には、熾炭が熱を放っている。
 部屋を彩るはずの餅飾りは、部屋の暗さと相俟って、どこか陰鬱な印象だ。
 枝に刺した赤と白の餅は、人間じゃないものの居場所のような気がして、子供心に怖かった。

 どれ、ばっぱが"ぺろ"作ってやっから

 そう言って、ばっばが暗い台所で作る手打ちの麺は、褐色がかり、ボソボソとして、あまり美味しくはなかった。
 台所の隅には、もう使われていない古い竃がふたつ、並んでいる。
 その奥には牛小屋があり、明かりの入らない暗闇に、牛がつながれていた。
 光の当たらない暗く寒い場所に佇む一頭の牛を、いつも気の毒に思っていた。


 夫が語る高原の村の記憶は、寒く、暗く、豊かとは言い難いが、それでいて、まるで熾炭のように、ぼんやりとあたたかく、明るい。


 義母が以前、ふいに語り出した事がある。

 うんと子供の頃の話な、
 じっちが運転する荷車の荷台で、夜空を見上げてたの。
 満天の星っていうの、空いっぱいに星があって、
 なんとも言えずきれいなもんだ、と見てたの。
 そんでな、前に、友達らと尾瀬に行ったの。
 夜、みんな星が綺麗って、騒いでるの。
 それ見て、おれ、なーんだ、あんなの、昔じっちの荷台で見た空の方がよっぽど綺麗だった、と思ったの。

 高原の村を故郷とする義母は、月足らずで生まれてきた。
 身重の祖母が、冷たい水に足を浸しながら、田植え作業に励んだ結果だという。
 それは、義母にとっては、後年、体調不良に悩む自分を運命づける、重要なエピソードとなった。
 盛夏にも涼をもたらす高原の水が恵みと思われるようになったのは、ごく最近の事だ。
 いつまでもぬるまぬ水は、生活の厳しさを象徴するものだった。

 海に近い里育ちの義父は、高原の村をただ「山」と呼び慣らす。
 若い頃に、一時期、この村に住み込み、自転車修理の仕事をしていた事がある。
 
 山さ、行ってくっか。

 義父が、そう言えば、高原の村へ出かける事である。
 自転車修理工の後、自動車販売のディーラーへ職を変え、今は悠々自適の生活を送る義父が、嘆息交じりの声で言う。

 あそこの山は、いい山だどー。

 いい山には、春には山菜、秋にはキノコが豊かに顔を出す。
 義父が「七曲がり」と親しく呼び慣らす峠道は、昔は浜から山へ向かう街道の難所として知られていた。
 舗装もされない折れ曲がった道を通るバスに乗る事がどれほど難儀であったか、以前、聞いた事がある。

 まともに、口なんか聞いてられねえど、は。
 いやいや、雨の後なんか、おっかなかったど。
 雪なんか降ったら、通ってらんね。

 今では、きれいに舗装され、カーブも緩やかに整備された峠道を抜けると、これまでの道が嘘であったかのような、ふところ深く、なだらかな丘陵地がぽっかりと顔を出す。
 緑美しく、湿度の低い高原は、さながら異国の風景に似ている。
 流れる時間もどこかゆるやかで、これが同時代の風景であるということを、束の間でも忘れさせるには充分だ。

 高原の春は遅く、麓の里よりも遅くに芽吹き、桜が色づく。
 あえかな色は、ここが山上である事を忘れさせる平かな景色を、やわらかく染め上げていく。
 なだらかな山に、牧草が光を受け、サラサラと揺れている。
 みずみずしい緑にうかびあがるように、艶やかな褐色の牛が草をはむ。

 麦秋の頃の美しさは、また、格別だ。
 澄んだ日射しに、こがね色に輝く畑、麦の穂が揺れている。
 墓地の側は、墓参りの車でごった返している。
 木陰を探しながら、舗装も造成もされていない小道を登っていく。
 めいめいが備えた花や線香で、墓地は賑わっている。
 眺めの良い墓地から望む丘陵地の空の広さは、天下一品だ。
 全天が、地に向かってひらかれている。
 陽は、降りそそぐ。
 地の恵みを、祝福するかのように。
 
 そして、あの日、高原の村には、しずかにテラベクレルの雪が降り積もった。

 原子は原子核と電子で構成され、原子核はさら陽子と中性子で構成される。電子はマイナスの電荷を、陽子はプラスの電荷を帯びる。陽子と中性子の数量の総計を原子の質量数と呼び、元素は陽子の数量で区分される。同じ元素でも中性子の数量が異なるものを同位体と呼び、区別する。
 

 私たちが、結婚の挨拶に訪れた時に、せっかく来たんだから、お茶でも飲んでいけ、と上げられた板間で焼酎を出してくれた義母の弟は、

 いやいや、たいした騒ぎだ。ひと騒ぎだ。
 ひどい世の中になったもんだ。

 そういって、薄くなった頭に手をやった。
 爆発の起きた日、高原の村へ下の里から避難した人も多かった。
 両親もそうだった。
 さらに、そこから娘のいる街まで避難する両親を、叔父は途中まで送ってくれた。
 その晩のことだった。
 それが降ったのは。

 天然界に多く存在し安定したウラン238に対して、核分裂しやすいウラン235は天然界では0.7%しか存在しない。原子力発電では、ウラン235の含有量を3~5%に増やしたウラン燃料に中性子を当て、核分裂させた時に出るエネルギーを発電用熱源として利用する。発生した熱で水を水蒸気にかえ、蒸気タービンを回転させて、発電するのである。ウラン235が核分裂すると、同時に、新たな中性子が2~3個発生する。その中性子をさらに連鎖的に核分裂反応に利用するように考えられたのが原子炉である。  核分裂とは、原子核を、二つ以上の別の原子核(元素)に分裂させる反応である。


 芽吹き始めのみどりは、極上の水彩画に似て、どんな光線もふわふわの輝きに変えてしまう。
 今年も、色を載せはじめた木々の梢を抜け、髪を皮膚を撫でていくのは、シーベルトの風だ。
 どんな顔料を持ってきても、染める事ができない、赤ん坊の手よりも繊細な、あの小さな一葉一葉に、風はやさしく触れていく。

 ウラン235が核分裂した結果、いくつかの放射性同位体が発生する。これらの原子核は安定性に欠き、陽子と中性子の均衡した安定した状態になるまで、放射線を発しながら崩壊していく。


 たいらかなやさしい丘陵は、色が載るたびに、あまい息を吹き出しているように見える。
 胸いっぱいに吸い込むと、色彩まで体内に入ってくる。
 あまい空気とふわふわの色彩に身体ごと染められる。
 起こされないままの田には、セシウムが、春のやわらかな日を受けながら、まどろんでいる。


 放射線とはエネルギーの移動であり、重さのある粒子と、重さのない電磁波に分類される。放射線はエネルギーが大きいため透過力が高く、通り道の原子にエネルギーを与えて、その原子から電子をはじき出す。はじき出された電子は、マイナスイオンとなり強いエネルギーを他の原子に与え、一方電子を失った原子はプラスイオンとなり、同様に高いエネルギーで他の原子に反応を与える。
 生命体の場合、これらの電離作用がDNAに損傷を与え、DNAが自己修復に失敗すると、細胞が癌化する原因となると言われている。

 
 高原の初夏、地表を覆うみどりはまだ若い。
 暗闇を乱舞する蛍の群れ、空間を舞う光は、波動であり粒子である。
 あの空のずっと先、はるか向こうの太陽では、ずっと昔から核融合反応が続けられている。
 水素がヘリウムになる過程で、膨大な熱を放ち、それが遠く離れた私たちの地をあたため、光を、色彩を与える。
 あの輝く球体は、75%が水素でできているのだという。
 この光は、電磁波の一部が、可視光線として視覚に認識されているにすぎないのだという。
 そして、私たちは、畏敬の念とともに天に手を差しのばす。

 少女と呼ぶにもまだ幼い頃の義母が、高原の夜に見た恒星の輝きもまた、原子核のまばゆい輝きに満ちている。
 ひかる夜空は、ただ天蓋としてそこにあるのではない。それは、無数の物質とも呼べない微少な存在に満たされ、幼い義母を絶え間なく貫き、私たちを通り抜け続けている。
 その軌跡が、かすかにでも発光するならば、私たちの身体も、この世界も、あたりいちめん、明滅するやわらかな光に包まれるのだろうか。


 見晴らしのよい丘の上に立つと、畳なずむ山々の稜線がはるかに広がって見える。
 あの、いちばん遠い稜線のその向こうには、太平洋がある。


 そして、ここからむこうへは、行ってはいけない。
 
 
 
※写真は高原の村の南東部、隣町との境界近辺の集落付近。写真の奥へ向かって高い線量が観測されている地域になる。数年前に通った時に、その風景の美しさに車を停め、写真を撮ったもの。この視界の先に第一原発がある。


※本文記載にあたって、以下のサイトの記述を参考にしました。
 本文中に、筆者の理解不足による間違いがある場合は、ご指摘いただけると幸いです。
 原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト あとみん
 日本原燃 サイト内 『やさしい放射線の話』
 電気事業連合会【でんきの情報広場】

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新世紀へようこそ

 
 あれから、ずっと、言葉を探している。
 頭の中で、何度も、これだと思う言葉を反芻している。
 けれど、文字におとして見ると、やはり違うのだ。
 だから、また、探し続ける。
 私は、新しい言葉を、探し続けなくてはならない。

 今、私の置かれている状況は、コラージュ画に似ている。
 私の世界像は、無数に切り裂かれ、ある箇所は元の姿のままであるのに、ある箇所は無残に破壊し尽くされ、ある箇所は永遠に失われ、ある箇所からは現在進行形で何かが失われ続けている。
 それは、無雑作と言うには、あまりに暴力的で、ひとつのフレームに留めるには、あまりに多くのものを孕んでいる。
 私は、それを、修復し、再構成し、ふたたび、(新しく)、穏やかな姿に置き直さねばならない。

 どのように?
 どのようにして、それは可能となるのか?
 問えば問うほど、コラージュ画は複雑となり、混沌とし始める。
 だが、それでも、問わねばならないのだろう。
 どのようにして、それは可能となるのか?

 わずかでも、問いが、糸口を掴む見込みがあるならば、私はこう言いたい。

 新世紀へようこそ、
 ここが世界の先端だ。

 今はまだ、私自身にも、芝居がかった言葉としか思えない。
 だから、下を向いて、誰にも聞こえないよう小声で呟く。
 自分自身に、言い聞かせるように。

 新世紀へようこそ、
 ここが世界の先端だ。

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百年の夢

 今となると、それは、夢の出来事であったように思われる。
 眼下には小型耕耘機がやっと入る程の狭い棚田が階段状に連なる。急坂にしがみつくように建てられた古い茅葺きの家屋、その僅かな面積の平地を確保するためにも石垣が積んである。石垣の間をすり抜けながらおりた先には、小川とも呼べない小さな流れにサワガニが遊ぶ。見上げる視線のさらに上方を、棚田はどこまでも上っていく。
 空は高い。
 棚田の間の小道を上り、カイヅカイブキの生垣の向こう側にある茅葺き屋を目指す。縁側は開け放たれている。
 広い土間からの上がり框は子供の足には高すぎる。しがみつくようにして暗い室内へのぼる。
 煤けた囲炉裏、見上げる鴨居の上には、神棚と何枚かの写真が見える。
 囲炉裏部屋の脇には、狭い炊事場がある。家事にはあまりに不便と思える欠けたコンクリ製の流しに、蛇口から流れる水は冷たい。かろうじてガスに繋げられたような小さなコンロでの煮炊き。
 夏場、火のない囲炉裏端、薄暗い裸電球の下で取った食事は何を食べたのだろうか。
 食後の五右衛門風呂は火傷をしないように入るだけで精一杯で、熱くて寛ぐどころではなかった。
 夏でも夜は肌寒く、おそらく雨戸を閉め切って寝た。
 昼間の眩い光線と対照的に、屋内は暗闇に包まれている。
 これら幾つかの断片的な記憶を呼び覚ましながら、考える。
 これらは、きっと、本当に夢であったのだ。
 この十年以上の間、祖母が見続けていた、眠りでもなく、覚醒でもなく、途切れ途切れの、ただ時間だけが漂う夢。

 夢の終わりは、読経で締めくくられる。
 かつて彼女の教え子であったという菩提寺の住職の朗々とした声が斎場に響く。
 大概は聞き取れない読経の途中、「善女」という言葉が耳に飛び込んできた。リズムと抑揚でしか捉えていなかった音声の中に意味を持つ言葉は、唐突にあらわれ、鮮やかな色彩を放った。

  ぬかづけばわれも善女や仏生會(久女)

 善女という言葉から思い起こされた杉田久女の句が、なぜか祖母の姿と重なる。百二歳で生の終焉を迎えた祖母が、まだ八十歳頃、彼女に認知症の症状が出る前の姿で、仏前にぬかづいている。現実にはそんな姿を目にした事はないはずだけれど、明治女がぬかづく佇まいは、想像の中だけでも実に似つかわしく感じられた。身長が百五十センチにも満たない小さな体で背を丸め、香の立ち上る寺で、口を一文字に固く結んだ頑固そうな表情で、祈りを捧げている。いったい、誰のために、何のために。想像の中の祖母は応えない。

 嫁いできてからの祖母が暮らした山間の村の来歴を、父祖の事蹟を、かろうじてその末である私は、まったくと言っていいほど知らない。薄れがちな遠い記憶をたどると、墓誌には、せいぜい三、四代前までの名しか記されていなかったように思う。どんなに遡っても、明治をのぼる事はないだろう。戦前は製材所を経営し、羽振りがよい時期もあったという。祖父の長兄が製材所の機械に巻き込まれ、語り伝えられるほどの痛ましい最期を迎え、京都や満州を祖母と共に点々としていた次男の祖父が郷里へ戻る事となった。当時は、学校までの道中、一歩もよその敷地を踏まずに通えたと言うほどの山林を所有し、村祭りのお神楽見物には特別席がしつらえてあったと言うが、おそらく戦争前の一時的な活況であっただろう。その地での暮らし向きが決して豊かではなかった事は、近隣に同姓の親族が一軒もない事からも察せられる。あのような山中に、家督を相続する以外の子が分家して食べていけるほどの食料生産、あるいは何らかの産業が可能であったとは思えない。
 「ここから北へこえた伊予の国はあまりにも人が多く住み、何彼にものの不足しているところでございました」。宮本常一『忘れられた日本人』の中で、土佐の人が語る言葉だ。父祖は、きっと住みよい伊予の平野から溢れだした者達のひとりであったのだろう。器から水がこぼれるように、風に種子が飛ばされるように、人も流れ出し、僅かな起伏を必然の流路として、ただ流れていく。風に飛ばされた種子がわずかな窪地へ着地し、そこを終生の地として根を下ろすように、そこに僅かでも暮らしていけるだけの可能性があるならば、人も暮らしの場を築き上げようとする。伐木し、開墾し、地面から掘り出される石をひとつまたひとつと積み上げる。手で持つことが苦にならない程度の大きさの石だ。果てもなく続く斜面を、上へ上へと拓き、長年の労苦の果てに、やがてその作業は、景観を生み出す。辛い作業の合間に手を止め、見上げた景色に心ひらかれる事もあったはずだ。そう感じるのは、父祖の手になるその景観があまりに美しいからだ。不定型な曲線を描く石積みは、一段一段にしなやかに稲を育み、季節に応じた色を湛える。風が通れば、光は揺らぎ、葉擦れの音に身体ごと包まれる。それを父祖は、楽しみとも、美しさとも呼ばなかったかも知れない。そんな言葉は、ほんの僅かでも暮らしから離れた位置からしか発せられない。そうして作られた田も、水源に近い場の常である水の冷たさに豊かな稔りをもたらすことはなかった。やがて、子孫はその地を離れ、今ではもう石積みも見えぬほど葛が繁茂する田も目立つ。
 この斜面にかじりつくようにして生活するには、今の時代はあまりに豊かで、途方もない苦難に耐え抜いたであろう父祖の末裔である私たちの意思は、あまりに弱い。

 明治生まれの祖母は、脆弱な末裔とは違い、意思の強い人であった。彼女の事を知る親しいものは、土地の言葉で「ガイ」な人であった、と言う。終戦後、南方戦線から帰国した祖父は、戦友の遺族の生活を助けるための遺族会の活動に没頭し、家庭に一銭も入れる事はなく、やがて遠い縁戚にあたる戦友の未亡人と親しい仲になった。その人は、祖母とはまったく反対の、やさしく穏やかな性格の人であったという。祖母は教員として勤める傍ら、ほぼひとりで田畑を耕し、牛の世話をし、三人の子供を育て上げた。後に、祖父が死病を患い、入院する事になった時、付き添う祖母の氷のように冷たい祖父への対応に、見舞いに行った伯母は身が縮こまる思いがしたと言う。一方で、祖母は嬉しそうに見えた、とも伯母は言う。祖母の気性の激しさは、認知症を患った後でも、残された。骨折で入院した病院で、いつまでも引かぬ痛みに、医師を叱りつけ、院内の有名人となった。機嫌の良い時には、よく通る声で歌うように「サンキュー、サンキュー、ベリマッチ」と笑顔を浮かべる事もあった。火のような気性の頑固さ、一本芯の通った性格、悪戯っ子のような戯け、私が祖母について知っているのは、この程度しかない。

 祖父亡き後、あの古い茅葺屋は火災で焼失した。それからの祖母の人生は、流転の暮らしであった、と言ってもいい。父祖が辿ったのとはまったく反対の、礎を少しずつ失っていくだけの長い道を続けてきた。そして、流れるだけの祖母の時間が終末を迎えた後も、彼女の生を受け継ぐ者らは、流れる事を止めない。
 今は墓所と幾許かの山林だけが残されるあの地は、やがて夢のようにしか思い出せなくなるだろう。
 そして、その夢さえも、じきに忘れ去られる。
 

※タイトルは、ドゥシャン・ハナックのドキュメンタリー映画『百年の夢』から借りた。

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おばあちゃん、幸せでしたか

 介護施設でベッドに横たわる祖母は、すっかり小さくなっていた。鼻には栄養を送るためのチューブが差し込まれ、酸素マスクをあてがわれた口からは、痰のからむ音が消えない。時折、痰を吐き出そうと咳き込もうとするが、もはやそれも叶わず、むせる一歩手前の状態で息を詰まらせる。窒息するのではないか、と思うが、しばらくするとまた痰をからませながら呼吸を始める。
 伯母が声をかけながら頬を軽く叩くと、うすく目を開け、訴えかけるような目でこちらを見た。すぐに、いっそう苦しげな表情をし、懸命に呼吸を続けようとした。伯母に、起こすと苦しむだけだからもう声はかけない方がいいのではないか、と伝えると、伯母は今初めて気付いたと驚いた顔をした。
 外は雪もよいで、黒い雲が立ちこめている。午前中には、湿った雪が白い筋を描きながら降っていた。静かな介護室に響くのは、向かいのベッドに据え付けられたテレビの音と、祖母の苦しげな呼吸音だけだ。曇り空からわずかな間、日の光が差し込んだ。暗い空から天使の梯子が下ろされた。だが、光に包まれた窓の外の景色も祖母には関係がない。
 することもなく、ただベッドの側に座り、老人を見つめていると、「おばあちゃん、幸せでしたか」、そんな言葉が頭に浮かぶ。この期に及んでその質問にどれだけ意味がなく、また無慈悲なものであるかは、よくわかっている。それでも、心の中で繰り返す。おばあちゃん、あなたの人生は幸せでしたか。
 祖母は、ここ十年の間、ほとんど意味のある会話はしていない。機嫌が良い時には、歌を歌い、呼びかけに返事をしたり、笑ったりはした。けれど、もう、自分がどこにいるのか分かっていなかったし、あるいは、自己に対して何らかの認識できていたとも思えない。
ただ、積み重なる事のない時間だけが過ぎていった。それは、あまりに長すぎたのかもしれない。
 祖母が口から食物を摂取する事ができず、このままだと容態が危ない、と言われた時に、私の両親は共に病床にあった。ただそれだけのために、深い考えもなく、伯母は経鼻栄養管を用いた栄養摂取を受け容れ、親族の誰もその決断に反対をしなかった。すでに食物とは言っても、あらゆる食物をミキサーで細かく砕いて混ぜ込まれた物質、それは栄養物とは言えても、おおよそ食べ物とは呼びがたい物質、を長く食べさせられていた祖母に、今度は鼻から同じような物質が注入された。その措置が行われた時には、祖母はまだ笑う事もあったし、呼びかけに反応する事もあったのだ、と伯母は言った。一時は肌つやもよくなり、ベッドの上で呼びかけに表情を持って反応するようにもなった。だが、再び衰弱を始め、もうほとんど反応をしなくなった祖母が、生きる事がただ苦しみである状態になったとしても、栄養管を抜く事はできないのだ、と言う。
 向かいのベッドの人は、若く見える。身動きも会話もせず、一日中寝たままの状態でテレビに向かっている。脇に置いてある車椅子でどこかへ連れて行ったもらうこともあるのだろう。四人部屋の相部屋で、会話を交わす人は誰もいない。
 介護施設の向こう側には、霊峰として名高い山が見渡せる。冠雪した峰の雪が溶ける春先まで、この地の冷え込みは続く。雪解けを祖母が見ることはあるまい。見たとしても、彼女が季節の移ろいを理解する事ができたのは、もうずっと昔の記憶なのだ。厚い雪雲に覆われた霊峰を見上げながら、また思った。おばあちゃん、あなたの人生は、幸せでしたか。

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 万葉集の最初にあるのは雑歌である。相聞歌と挽歌が収められている。
 その事の意味をぼんやり考えていた。
 これについて考えるのは、きっと初めてではない。
 前にも同じ事を考え、そして、同じような結論に行き着いたはずだ。
 だが、また同じように考える。
 そして、今度はもっとより鮮やかに自分の中に刻み込まれる。
 確信を持って。

 私はこの先ずっと誰かのために文章を書くだろう。
 失われた人のために、あるいは、これから失われる人のために。
 失われた人に対して、私に可能なのはそれしかないからだ。
 為すことができない代償に、言葉はその誰かのために発せられる。
 まず商品化する事はできないような文章を書いていくのだろう。

  
 

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 正義の前に、無力さの話をしていたんじゃなかったんだろうか。
 善意の前に、絶望の話をしていたんじゃなかったんだろうか。
 ふと見渡せば、半径200mの善意の万能感が満ちあふれている。
 その事に誰も気付かない。
 本当は気付いているのに気付かないふりをしているのだろうか。
 それもわからない。
 それほどに無邪気な善意の万能感。
 
 過去は、こんなにも簡単に忘れ去られるものなのか。
 繰り返されてきたはずの議論はすべてなかったことにされているのか、あるいは、そんな議論はもともとなかったのか。
 無化された歴史の現在に、茫洋と手を振る。
 
 あなたの正義も、ささやかな善意も、本当に助けを必要としている、目の前の大切なたった一人さえ、助けることは出来はしないのだ。
 だから、と言うわけではないけれど、この前提がない正義や善意の空疎さに、彼らが気付いているのかいないのか、その事さえわからない。

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葬送の夏

 五年前、祖母が亡くなった夏も炎暑だった。自家用車から降りて葬祭場へ入るまでの寸秒で、喪服は重たく肌に張り付いた。季節を違える程に冷房のいれられた斎場で、瞬く間に汗は冷えた。
 祖母の病が発覚し亡くなるまでの二年間、病身を押して看護をした母は、葬儀には出なかった。暑さと自身の体調を慮ったのだろう。郷里から離れた場所だったこともあり、葬儀に参列したのは、ごく近い身内だけだった。母の弟である叔父が喪主を務め、通りいっぺんの味気ない挨拶をし、祖母は火葬場で骨になった。親に不義理を働いたこの弟を、母は生涯、許さなかった。そして、祖母はそんな叔父をゆるし続けた。
 五年後の今年、あの夏と同じように記録的猛暑が伝えられる中、同じ斎場の同じ会場で、母の葬儀は営まれた。参列者は想像以上に多く、会場の外側にも椅子が並べられた。僧侶の読経が止んですぐに始まった友人の弔辞では、イザヤ書から言葉が引かれ、神の御許へ召される友人への思いが述べられた。どこかちぐはぐな葬儀に、多くの友人、知人が、母のために集い、涙した。斎場の横にあるショッピングセンターからは、突き刺す日差しに不釣り合いな黒色の集団は、そこが紛うことなく喪の場所であると誇示しているようにも見えたろう。
 田舎の旧家の本家筋に生まれた母は、幼い頃病弱だったせいもあってか、年を経て後もどこかお嬢様気分が抜けない人だった。後年、夫婦喧嘩の時に、「子供の頃、私が挨拶をしなくても向こうから挨拶をされないことはなかった」と宣ったと父は笑ったが、そんな気分がいつまでも残っていた。歯に衣着せぬ、無礼な物言いや態度を、無邪気で愛嬌のある性分でゆるされてきた人であった、と思う。通夜の席で、母の学生時代を知る友人が、「身体も小さかったから、妖精みたいに可愛い人だった」と言った。私は、そんな母を無条件に愛していたわけではない。いつしか、親子関係が逆転し、私が精神的な庇護者となることで、ようやく親子関係は穏やかなものとして成立した。その期間は、長くはなかった。

 生まれたばかりの母に、心臓に先天的な欠陥があることは、早くに分かっていた。この子は二十歳まで生きられないと言われていたと、祖母からは何度も聞いた。母が命を繋げたのは、医療の進歩にかろうじて間に合ったからだ。二十歳を過ぎた頃、当時は最先端であった心臓外科手術を受け、健康な人となんら変わらぬ生活を送れるようになった。私が成長過程にある期間、母がわずかでも健康に問題を抱えていると感じる事さえなかった。風邪もほとんどひかない人だった。唯一、子供の頃運動をしたことがないため、カナヅチであるとは言っていた。そして、母が健康であったのは、子育てをしている二十数年間の期間だけだった。
 子供達がひととおり成人を迎えた頃、母は死病となる原因不明の疾患を発症した。若い頃の心臓疾患とはまったく関係ないと考えられる。徐々に呼吸機能が蝕まれていく病であった。
 余命が一、二年であると言われれば動転するが、十年と言われれば準備には十分な期間である、と言う言葉を、昔、聞いたことがある。だが、それは嘘だ。自分の中の身体機能が徐々に蝕まれ、それがついには自身の生命を奪うことを感じながら、日々を繋いでいく現実は、そのような夢想的な言葉では説明できない。同病の年若い友人達の訃報を繰り返し目にしながら、自分の時間を続けていくことに、どれだけの精神力が必要とされるのか、私にもわからない。母は病とともに十五年を生きた。幸いなことに、その大半の時間は、穏やかに過ごすことが出来た。母の死に際して、少なくない病気仲間が悼んでくれた。やがて自らに来たるものと明確に意識している彼女たちの弔意は、どこまでも真摯で思い遣りに満ちていた。母もまたこうして友人達を見送ってきたのだろう。
 容態が悪化し、苦痛が耐えがたいものとなった時、鎮静剤を用いたセデーションが行われた。長年にわたる病の中で、薬剤に対する耐性ができていたのか、小柄な母に対して医師も驚く程多量の鎮静剤を用いなければ、苦痛を和らげることができなかった。余程大柄な人であっても頬を叩いても目を覚まさないと医師が言うほどの鎮静剤を投与されながら、母は時折目を覚まし、苦痛を訴えた。その度に、手を握り、水を口に含ませ、長く洗っていない髪を櫛で梳いた。少しは気が紛れたのか、病人はかすかに頷いた。それでも苦痛がひかない母に、看護師さんを呼び、鎮静剤を増量し、眠りにつかせた。母は、五年前、死の床にいた祖母とよく似た顔をしていた。臨終を迎える前に、このような表情になるのだとすれば、兄妹のうち誰よりも母に似ていると言われる私もまたいまわの際には、このような表情をするのだろう、と思った。
 死の間際、血中の二酸化炭素濃度が上昇すると、人は、幸せな幻影を見るのだという。それが、長い間呼吸苦に悩まされた人間へ、神が与える最初で最後の恩寵だ。母が最後に見た光景がどのようなものであったか知る術はないが、光と美しさと慈愛に満ちたものであると、信じる。
 

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魂の安からん事を

 繁茂する夏は服喪の期になった。
 七年前に祖父が六月十五日に亡くなり、五年前に祖母が亡くなったのは七月二十三日だった。そして、今度、母が亡くなったのは七月十九日である。
 母は緩慢に進行する病を得ていた。同病でも急激に進行する人もいる中、それは、幸いだったろう。
 昨年、脳出血、ついで入院中に気胸となった時、何が起きているのか、私は正確に理解した。斜面に停車中の、大きな車輪の車止めが外れたようなもので、その後がどうなるかは、見るまでもない。そして、その事は、本人もよく理解していた。状態を好転させるための努力は、僅かな気休めに過ぎなかったが、それでも病人はリハビリに努め、前向きな気持ちを失わずにいるようだった。その気力は、天から授かった才であるとしか思えなかった。重い病と長く付き合う人の中には、稀でなく、驚く程の勁い精神力を見せる人がいる。元々気高い人であったり、人格者であるからではなく、ごく普通の人であるにも関わらず、だ。人間の精神の有り様は、不可思議だ。
 一年前に倒れた時から、いや、本当はそれ以前から、こうなることは判っていた。かかりつけの医師は、母に七十まで生きたいのなら移植を受けなさい、と勧めた。移植を受けなかった母が六十を越えてから、誕生日の度に、後何年生きられるだろうか、といつも考えていた。病を抱える者にとって、医療は慈悲深く、同時に、冷酷である。
 今はただ、病の長かった故人の魂の安からん事を祈る。

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 母が再入院し、前回同様進退窮まった状況にある。
 好転する見込みはほとんどなく、かと言って、危篤という状態でもない。
 治療をしないわけにはいかないが、対症療法であり、それにより状態は一層悪化する可能性が高い。
 けれどしないわけにはいかない。

 この一年、うんざりするような一年だった。
 母の病に伴う実際上の大変さよりも、自分の身内との齟齬が主たるものである。
 私は、やはりこの家族が苦手であったのだな、と痛感する一年であった。
 落ち着いたらもっと距離を置いて書くこともあるだろう。
 
 一人を介護するためには、最低でも1.5人の人手がいる、と言う。
 1人は、主に介護をする人間、つまり仕事の片手間でなく専属的に介護をする人間。
 0.5人は、主たる介護者を休ませるために必要な人員だ。
 現在は、介護保険サービスが存在するが、必要な被介護量の増加に、介護保険サービスは追いついていない。
 というよりも、むしろ、介護を介護保険サービスのみで賄うのは、土台、経済的に不可能であるのだ。
 コストがあまりにかかりすぎる。
 身内であれば、子供でも出来ることがある。昔はごく普通に子供もしていたことだろう。
 「ちょっとおばあちゃんを見ておいて、様子がおかしかったら周りの大人に言うのよ」
 これを外注しようとすると、それだけでバカらしい程のコストがかかる。
 核家族化の急速な進展で、家族全体で被介護者を支えるということが不可能になった現在、こうした事まですべてが介護のコストとして跳ね返る。
 そして、現在の日本は、その対策をなにひとつ取っていない。
 団塊世代が真の高齢化を迎える10年~20年後、想像するのもげんなりするような事態が各地で発生するだろうと、私は強く確信している。
 出来ることは、せいぜい自己防衛くらいだ。

 もう一点、核家族化と同様に問題となるのは、行政サービスへの依存心の強さだろう。
 どの程度一般化することが可能なのかはわからないが、少なくとも私の身内あるいは身内の側にいる団塊及び団塊ジュニア世代は、行政サービスや社会・他者への依存心がきわめて強い。
 公共的感覚をほとんど持ち合わせていないと言ってよい。
 一般論としては、公共的感覚を持ったことを言うが、自分自身に降りかかるとなると、全く他人頼みである。
 私自身の生活圏には、こうした甘えた感覚を持った人間は少ないので、驚きであった。
 その当事者意識の欠如ぶりは、私が育ってきた社会環境の「常識」や「規範」を疑わせるのに十分すぎる程であった。
 いったいどの程度の比率でこのように依存心が強い人間が存在するのかわからないが、おそらく決して少ない割合ではないだろう。
 彼らが介護・被介護の主体となり、必至の情勢である行政サービスが破綻した時に巻き起こる事態は想像に難くない。
 銘々が自己中心的であるのだから、荒廃した雰囲気が社会に充満するだろう。

 このように容易に想像できるような事態について、なにひとつ有効な手立てが打てていないのであるから、どう考えても、ここ3~40年の時代の雰囲気はよいものとなりようがない。
 時代の暗さと文化的成果は比例しない、救いとなるのはそれくらいであるか。


 学生時代、ドゥルーズやデリダを読み囓ったが、何もわかっていなかったのだな、と痛感する。
 彼らが著したことは、今、これからの時代にようやく理解可能になっていくのだろう。
 あれを、存在論の変種と勘違いして読んでいた自分の浅慮さには苦笑いするしかない。
 読み返したいと痛切に思う。
 

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