高原の村

 東北の高原の冬は、ただ、凍みる。
 奥羽山脈付近で湿度を雪に変えた寒気は、冷たく乾いた空気となって、太平洋間近の高地を覆う。
 積雪量がさほど多くない代わりに、雪に覆われない大地は凍てつき、人の手が入る事を拒む。
 厚く凍った地面は、金属のツルハシでさえ、はじきとばす。

 暗い部屋の土間に、カッカと薪ストーブが燃えている。
 粗末な部屋に見合った、粗末な薪ストーブだ。
 ストーブの上には、いつも何かしら鍋が置かれていた。
 鍋で煮られているのは、芋のような野菜のような、あるいはお粥のような、今となってははっきりと思い出せない。
 ただ、子供が楽しみにするようなものでなかったことは確かだ。
 薪ストーブを囲むように、上がり框がしつらえられ、そこに腰掛けている間だけは、束の間、寒さを忘れる事ができる。
 長方形の鉄製のストーブは、薪をくべる分だけ、熱を帯びる。
 ふと指が触れれば、痛みと熱さが同時に襲ってくる。

 かんかちしたのが、もごいこと。
 どれ、ばっぱがなめてやっから。

 ばっぱが痛む指をそっと口に含む。
 とおいとおい記憶の奥で、もう、それが現実であったかどうかも定かでない。
 けれど、その触感だけが妙に現実味をもって思い出される。 

 決して明るいとは言い難い、天井の張られていない居間には掘コタツ、奥には餅飾りがあった。
 上は、中二階のような構造となっていて、昔は蚕でも飼っていたのかも知れない。
 当時はもう使われておらず、ただ暗闇だけを湛えていた。
 堀コタツの足下には、熾炭が熱を放っている。
 部屋を彩るはずの餅飾りは、部屋の暗さと相俟って、どこか陰鬱な印象だ。
 枝に刺した赤と白の餅は、人間じゃないものの居場所のような気がして、子供心に怖かった。

 どれ、ばっぱが"ぺろ"作ってやっから

 そう言って、ばっばが暗い台所で作る手打ちの麺は、褐色がかり、ボソボソとして、あまり美味しくはなかった。
 台所の隅には、もう使われていない古い竃がふたつ、並んでいる。
 その奥には牛小屋があり、明かりの入らない暗闇に、牛がつながれていた。
 光の当たらない暗く寒い場所に佇む一頭の牛を、いつも気の毒に思っていた。


 夫が語る高原の村の記憶は、寒く、暗く、豊かとは言い難いが、それでいて、まるで熾炭のように、ぼんやりとあたたかく、明るい。


 義母が以前、ふいに語り出した事がある。

 うんと子供の頃の話な、
 じっちが運転する荷車の荷台で、夜空を見上げてたの。
 満天の星っていうの、空いっぱいに星があって、
 なんとも言えずきれいなもんだ、と見てたの。
 そんでな、前に、友達らと尾瀬に行ったの。
 夜、みんな星が綺麗って、騒いでるの。
 それ見て、おれ、なーんだ、あんなの、昔じっちの荷台で見た空の方がよっぽど綺麗だった、と思ったの。

 高原の村を故郷とする義母は、月足らずで生まれてきた。
 身重の祖母が、冷たい水に足を浸しながら、田植え作業に励んだ結果だという。
 それは、義母にとっては、後年、体調不良に悩む自分を運命づける、重要なエピソードとなった。
 盛夏にも涼をもたらす高原の水が恵みと思われるようになったのは、ごく最近の事だ。
 いつまでもぬるまぬ水は、生活の厳しさを象徴するものだった。

 海に近い里育ちの義父は、高原の村をただ「山」と呼び慣らす。
 若い頃に、一時期、この村に住み込み、自転車修理の仕事をしていた事がある。
 
 山さ、行ってくっか。

 義父が、そう言えば、高原の村へ出かける事である。
 自転車修理工の後、自動車販売のディーラーへ職を変え、今は悠々自適の生活を送る義父が、嘆息交じりの声で言う。

 あそこの山は、いい山だどー。

 いい山には、春には山菜、秋にはキノコが豊かに顔を出す。
 義父が「七曲がり」と親しく呼び慣らす峠道は、昔は浜から山へ向かう街道の難所として知られていた。
 舗装もされない折れ曲がった道を通るバスに乗る事がどれほど難儀であったか、以前、聞いた事がある。

 まともに、口なんか聞いてられねえど、は。
 いやいや、雨の後なんか、おっかなかったど。
 雪なんか降ったら、通ってらんね。

 今では、きれいに舗装され、カーブも緩やかに整備された峠道を抜けると、これまでの道が嘘であったかのような、ふところ深く、なだらかな丘陵地がぽっかりと顔を出す。
 緑美しく、湿度の低い高原は、さながら異国の風景に似ている。
 流れる時間もどこかゆるやかで、これが同時代の風景であるということを、束の間でも忘れさせるには充分だ。

 高原の春は遅く、麓の里よりも遅くに芽吹き、桜が色づく。
 あえかな色は、ここが山上である事を忘れさせる平かな景色を、やわらかく染め上げていく。
 なだらかな山に、牧草が光を受け、サラサラと揺れている。
 みずみずしい緑にうかびあがるように、艶やかな褐色の牛が草をはむ。

 麦秋の頃の美しさは、また、格別だ。
 澄んだ日射しに、こがね色に輝く畑、麦の穂が揺れている。
 墓地の側は、墓参りの車でごった返している。
 木陰を探しながら、舗装も造成もされていない小道を登っていく。
 めいめいが備えた花や線香で、墓地は賑わっている。
 眺めの良い墓地から望む丘陵地の空の広さは、天下一品だ。
 全天が、地に向かってひらかれている。
 陽は、降りそそぐ。
 地の恵みを、祝福するかのように。
 
 そして、あの日、高原の村には、しずかにテラベクレルの雪が降り積もった。

 原子は原子核と電子で構成され、原子核はさら陽子と中性子で構成される。電子はマイナスの電荷を、陽子はプラスの電荷を帯びる。陽子と中性子の数量の総計を原子の質量数と呼び、元素は陽子の数量で区分される。同じ元素でも中性子の数量が異なるものを同位体と呼び、区別する。
 

 私たちが、結婚の挨拶に訪れた時に、せっかく来たんだから、お茶でも飲んでいけ、と上げられた板間で焼酎を出してくれた義母の弟は、

 いやいや、たいした騒ぎだ。ひと騒ぎだ。
 ひどい世の中になったもんだ。

 そういって、薄くなった頭に手をやった。
 爆発の起きた日、高原の村へ下の里から避難した人も多かった。
 両親もそうだった。
 さらに、そこから娘のいる街まで避難する両親を、叔父は途中まで送ってくれた。
 その晩のことだった。
 それが降ったのは。

 天然界に多く存在し安定したウラン238に対して、核分裂しやすいウラン235は天然界では0.7%しか存在しない。原子力発電では、ウラン235の含有量を3~5%に増やしたウラン燃料に中性子を当て、核分裂させた時に出るエネルギーを発電用熱源として利用する。発生した熱で水を水蒸気にかえ、蒸気タービンを回転させて、発電するのである。ウラン235が核分裂すると、同時に、新たな中性子が2~3個発生する。その中性子をさらに連鎖的に核分裂反応に利用するように考えられたのが原子炉である。  核分裂とは、原子核を、二つ以上の別の原子核(元素)に分裂させる反応である。


 芽吹き始めのみどりは、極上の水彩画に似て、どんな光線もふわふわの輝きに変えてしまう。
 今年も、色を載せはじめた木々の梢を抜け、髪を皮膚を撫でていくのは、シーベルトの風だ。
 どんな顔料を持ってきても、染める事ができない、赤ん坊の手よりも繊細な、あの小さな一葉一葉に、風はやさしく触れていく。

 ウラン235が核分裂した結果、いくつかの放射性同位体が発生する。これらの原子核は安定性に欠き、陽子と中性子の均衡した安定した状態になるまで、放射線を発しながら崩壊していく。


 たいらかなやさしい丘陵は、色が載るたびに、あまい息を吹き出しているように見える。
 胸いっぱいに吸い込むと、色彩まで体内に入ってくる。
 あまい空気とふわふわの色彩に身体ごと染められる。
 起こされないままの田には、セシウムが、春のやわらかな日を受けながら、まどろんでいる。


 放射線とはエネルギーの移動であり、重さのある粒子と、重さのない電磁波に分類される。放射線はエネルギーが大きいため透過力が高く、通り道の原子にエネルギーを与えて、その原子から電子をはじき出す。はじき出された電子は、マイナスイオンとなり強いエネルギーを他の原子に与え、一方電子を失った原子はプラスイオンとなり、同様に高いエネルギーで他の原子に反応を与える。
 生命体の場合、これらの電離作用がDNAに損傷を与え、DNAが自己修復に失敗すると、細胞が癌化する原因となると言われている。

 
 高原の初夏、地表を覆うみどりはまだ若い。
 暗闇を乱舞する蛍の群れ、空間を舞う光は、波動であり粒子である。
 あの空のずっと先、はるか向こうの太陽では、ずっと昔から核融合反応が続けられている。
 水素がヘリウムになる過程で、膨大な熱を放ち、それが遠く離れた私たちの地をあたため、光を、色彩を与える。
 あの輝く球体は、75%が水素でできているのだという。
 この光は、電磁波の一部が、可視光線として視覚に認識されているにすぎないのだという。
 そして、私たちは、畏敬の念とともに天に手を差しのばす。

 少女と呼ぶにもまだ幼い頃の義母が、高原の夜に見た恒星の輝きもまた、原子核のまばゆい輝きに満ちている。
 ひかる夜空は、ただ天蓋としてそこにあるのではない。それは、無数の物質とも呼べない微少な存在に満たされ、幼い義母を絶え間なく貫き、私たちを通り抜け続けている。
 その軌跡が、かすかにでも発光するならば、私たちの身体も、この世界も、あたりいちめん、明滅するやわらかな光に包まれるのだろうか。


 見晴らしのよい丘の上に立つと、畳なずむ山々の稜線がはるかに広がって見える。
 あの、いちばん遠い稜線のその向こうには、太平洋がある。


 そして、ここからむこうへは、行ってはいけない。
 
 
 
※写真は高原の村の南東部、隣町との境界近辺の集落付近。写真の奥へ向かって高い線量が観測されている地域になる。数年前に通った時に、その風景の美しさに車を停め、写真を撮ったもの。この視界の先に第一原発がある。


※本文記載にあたって、以下のサイトの記述を参考にしました。
 本文中に、筆者の理解不足による間違いがある場合は、ご指摘いただけると幸いです。
 原子力・エネルギー教育支援情報提供サイト あとみん
 日本原燃 サイト内 『やさしい放射線の話』
 電気事業連合会【でんきの情報広場】

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新世紀へようこそ

 
 あれから、ずっと、言葉を探している。
 頭の中で、何度も、これだと思う言葉を反芻している。
 けれど、文字におとして見ると、やはり違うのだ。
 だから、また、探し続ける。
 私は、新しい言葉を、探し続けなくてはならない。

 今、私の置かれている状況は、コラージュ画に似ている。
 私の世界像は、無数に切り裂かれ、ある箇所は元の姿のままであるのに、ある箇所は無残に破壊し尽くされ、ある箇所は永遠に失われ、ある箇所からは現在進行形で何かが失われ続けている。
 それは、無雑作と言うには、あまりに暴力的で、ひとつのフレームに留めるには、あまりに多くのものを孕んでいる。
 私は、それを、修復し、再構成し、ふたたび、(新しく)、穏やかな姿に置き直さねばならない。

 どのように?
 どのようにして、それは可能となるのか?
 問えば問うほど、コラージュ画は複雑となり、混沌とし始める。
 だが、それでも、問わねばならないのだろう。
 どのようにして、それは可能となるのか?

 わずかでも、問いが、糸口を掴む見込みがあるならば、私はこう言いたい。

 新世紀へようこそ、
 ここが世界の先端だ。

 今はまだ、私自身にも、芝居がかった言葉としか思えない。
 だから、下を向いて、誰にも聞こえないよう小声で呟く。
 自分自身に、言い聞かせるように。

 新世紀へようこそ、
 ここが世界の先端だ。

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百年の夢

 今となると、それは、夢の出来事であったように思われる。
 眼下には小型耕耘機がやっと入る程の狭い棚田が階段状に連なる。急坂にしがみつくように建てられた古い茅葺きの家屋、その僅かな面積の平地を確保するためにも石垣が積んである。石垣の間をすり抜けながらおりた先には、小川とも呼べない小さな流れにサワガニが遊ぶ。見上げる視線のさらに上方を、棚田はどこまでも上っていく。
 空は高い。
 棚田の間の小道を上り、カイヅカイブキの生垣の向こう側にある茅葺き屋を目指す。縁側は開け放たれている。
 広い土間からの上がり框は子供の足には高すぎる。しがみつくようにして暗い室内へのぼる。
 煤けた囲炉裏、見上げる鴨居の上には、神棚と何枚かの写真が見える。
 囲炉裏部屋の脇には、狭い炊事場がある。家事にはあまりに不便と思える欠けたコンクリ製の流しに、蛇口から流れる水は冷たい。かろうじてガスに繋げられたような小さなコンロでの煮炊き。
 夏場、火のない囲炉裏端、薄暗い裸電球の下で取った食事は何を食べたのだろうか。
 食後の五右衛門風呂は火傷をしないように入るだけで精一杯で、熱くて寛ぐどころではなかった。
 夏でも夜は肌寒く、おそらく雨戸を閉め切って寝た。
 昼間の眩い光線と対照的に、屋内は暗闇に包まれている。
 これら幾つかの断片的な記憶を呼び覚ましながら、考える。
 これらは、きっと、本当に夢であったのだ。
 この十年以上の間、祖母が見続けていた、眠りでもなく、覚醒でもなく、途切れ途切れの、ただ時間だけが漂う夢。

 夢の終わりは、読経で締めくくられる。
 かつて彼女の教え子であったという菩提寺の住職の朗々とした声が斎場に響く。
 大概は聞き取れない読経の途中、「善女」という言葉が耳に飛び込んできた。リズムと抑揚でしか捉えていなかった音声の中に意味を持つ言葉は、唐突にあらわれ、鮮やかな色彩を放った。

  ぬかづけばわれも善女や仏生會(久女)

 善女という言葉から思い起こされた杉田久女の句が、なぜか祖母の姿と重なる。百二歳で生の終焉を迎えた祖母が、まだ八十歳頃、彼女に認知症の症状が出る前の姿で、仏前にぬかづいている。現実にはそんな姿を目にした事はないはずだけれど、明治女がぬかづく佇まいは、想像の中だけでも実に似つかわしく感じられた。身長が百五十センチにも満たない小さな体で背を丸め、香の立ち上る寺で、口を一文字に固く結んだ頑固そうな表情で、祈りを捧げている。いったい、誰のために、何のために。想像の中の祖母は応えない。

 嫁いできてからの祖母が暮らした山間の村の来歴を、父祖の事蹟を、かろうじてその末である私は、まったくと言っていいほど知らない。薄れがちな遠い記憶をたどると、墓誌には、せいぜい三、四代前までの名しか記されていなかったように思う。どんなに遡っても、明治をのぼる事はないだろう。戦前は製材所を経営し、羽振りがよい時期もあったという。祖父の長兄が製材所の機械に巻き込まれ、語り伝えられるほどの痛ましい最期を迎え、京都や満州を祖母と共に点々としていた次男の祖父が郷里へ戻る事となった。当時は、学校までの道中、一歩もよその敷地を踏まずに通えたと言うほどの山林を所有し、村祭りのお神楽見物には特別席がしつらえてあったと言うが、おそらく戦争前の一時的な活況であっただろう。その地での暮らし向きが決して豊かではなかった事は、近隣に同姓の親族が一軒もない事からも察せられる。あのような山中に、家督を相続する以外の子が分家して食べていけるほどの食料生産、あるいは何らかの産業が可能であったとは思えない。
 「ここから北へこえた伊予の国はあまりにも人が多く住み、何彼にものの不足しているところでございました」。宮本常一『忘れられた日本人』の中で、土佐の人が語る言葉だ。父祖は、きっと住みよい伊予の平野から溢れだした者達のひとりであったのだろう。器から水がこぼれるように、風に種子が飛ばされるように、人も流れ出し、僅かな起伏を必然の流路として、ただ流れていく。風に飛ばされた種子がわずかな窪地へ着地し、そこを終生の地として根を下ろすように、そこに僅かでも暮らしていけるだけの可能性があるならば、人も暮らしの場を築き上げようとする。伐木し、開墾し、地面から掘り出される石をひとつまたひとつと積み上げる。手で持つことが苦にならない程度の大きさの石だ。果てもなく続く斜面を、上へ上へと拓き、長年の労苦の果てに、やがてその作業は、景観を生み出す。辛い作業の合間に手を止め、見上げた景色に心ひらかれる事もあったはずだ。そう感じるのは、父祖の手になるその景観があまりに美しいからだ。不定型な曲線を描く石積みは、一段一段にしなやかに稲を育み、季節に応じた色を湛える。風が通れば、光は揺らぎ、葉擦れの音に身体ごと包まれる。それを父祖は、楽しみとも、美しさとも呼ばなかったかも知れない。そんな言葉は、ほんの僅かでも暮らしから離れた位置からしか発せられない。そうして作られた田も、水源に近い場の常である水の冷たさに豊かな稔りをもたらすことはなかった。やがて、子孫はその地を離れ、今ではもう石積みも見えぬほど葛が繁茂する田も目立つ。
 この斜面にかじりつくようにして生活するには、今の時代はあまりに豊かで、途方もない苦難に耐え抜いたであろう父祖の末裔である私たちの意思は、あまりに弱い。

 明治生まれの祖母は、脆弱な末裔とは違い、意思の強い人であった。彼女の事を知る親しいものは、土地の言葉で「ガイ」な人であった、と言う。終戦後、南方戦線から帰国した祖父は、戦友の遺族の生活を助けるための遺族会の活動に没頭し、家庭に一銭も入れる事はなく、やがて遠い縁戚にあたる戦友の未亡人と親しい仲になった。その人は、祖母とはまったく反対の、やさしく穏やかな性格の人であったという。祖母は教員として勤める傍ら、ほぼひとりで田畑を耕し、牛の世話をし、三人の子供を育て上げた。後に、祖父が死病を患い、入院する事になった時、付き添う祖母の氷のように冷たい祖父への対応に、見舞いに行った伯母は身が縮こまる思いがしたと言う。一方で、祖母は嬉しそうに見えた、とも伯母は言う。祖母の気性の激しさは、認知症を患った後でも、残された。骨折で入院した病院で、いつまでも引かぬ痛みに、医師を叱りつけ、院内の有名人となった。機嫌の良い時には、よく通る声で歌うように「サンキュー、サンキュー、ベリマッチ」と笑顔を浮かべる事もあった。火のような気性の頑固さ、一本芯の通った性格、悪戯っ子のような戯け、私が祖母について知っているのは、この程度しかない。

 祖父亡き後、あの古い茅葺屋は火災で焼失した。それからの祖母の人生は、流転の暮らしであった、と言ってもいい。父祖が辿ったのとはまったく反対の、礎を少しずつ失っていくだけの長い道を続けてきた。そして、流れるだけの祖母の時間が終末を迎えた後も、彼女の生を受け継ぐ者らは、流れる事を止めない。
 今は墓所と幾許かの山林だけが残されるあの地は、やがて夢のようにしか思い出せなくなるだろう。
 そして、その夢さえも、じきに忘れ去られる。
 

※タイトルは、ドゥシャン・ハナックのドキュメンタリー映画『百年の夢』から借りた。

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おばあちゃん、幸せでしたか

 介護施設でベッドに横たわる祖母は、すっかり小さくなっていた。鼻には栄養を送るためのチューブが差し込まれ、酸素マスクをあてがわれた口からは、痰のからむ音が消えない。時折、痰を吐き出そうと咳き込もうとするが、もはやそれも叶わず、むせる一歩手前の状態で息を詰まらせる。窒息するのではないか、と思うが、しばらくするとまた痰をからませながら呼吸を始める。
 伯母が声をかけながら頬を軽く叩くと、うすく目を開け、訴えかけるような目でこちらを見た。すぐに、いっそう苦しげな表情をし、懸命に呼吸を続けようとした。伯母に、起こすと苦しむだけだからもう声はかけない方がいいのではないか、と伝えると、伯母は今初めて気付いたと驚いた顔をした。
 外は雪もよいで、黒い雲が立ちこめている。午前中には、湿った雪が白い筋を描きながら降っていた。静かな介護室に響くのは、向かいのベッドに据え付けられたテレビの音と、祖母の苦しげな呼吸音だけだ。曇り空からわずかな間、日の光が差し込んだ。暗い空から天使の梯子が下ろされた。だが、光に包まれた窓の外の景色も祖母には関係がない。
 することもなく、ただベッドの側に座り、老人を見つめていると、「おばあちゃん、幸せでしたか」、そんな言葉が頭に浮かぶ。この期に及んでその質問にどれだけ意味がなく、また無慈悲なものであるかは、よくわかっている。それでも、心の中で繰り返す。おばあちゃん、あなたの人生は幸せでしたか。
 祖母は、ここ十年の間、ほとんど意味のある会話はしていない。機嫌が良い時には、歌を歌い、呼びかけに返事をしたり、笑ったりはした。けれど、もう、自分がどこにいるのか分かっていなかったし、あるいは、自己に対して何らかの認識できていたとも思えない。
ただ、積み重なる事のない時間だけが過ぎていった。それは、あまりに長すぎたのかもしれない。
 祖母が口から食物を摂取する事ができず、このままだと容態が危ない、と言われた時に、私の両親は共に病床にあった。ただそれだけのために、深い考えもなく、伯母は経鼻栄養管を用いた栄養摂取を受け容れ、親族の誰もその決断に反対をしなかった。すでに食物とは言っても、あらゆる食物をミキサーで細かく砕いて混ぜ込まれた物質、それは栄養物とは言えても、おおよそ食べ物とは呼びがたい物質、を長く食べさせられていた祖母に、今度は鼻から同じような物質が注入された。その措置が行われた時には、祖母はまだ笑う事もあったし、呼びかけに反応する事もあったのだ、と伯母は言った。一時は肌つやもよくなり、ベッドの上で呼びかけに表情を持って反応するようにもなった。だが、再び衰弱を始め、もうほとんど反応をしなくなった祖母が、生きる事がただ苦しみである状態になったとしても、栄養管を抜く事はできないのだ、と言う。
 向かいのベッドの人は、若く見える。身動きも会話もせず、一日中寝たままの状態でテレビに向かっている。脇に置いてある車椅子でどこかへ連れて行ったもらうこともあるのだろう。四人部屋の相部屋で、会話を交わす人は誰もいない。
 介護施設の向こう側には、霊峰として名高い山が見渡せる。冠雪した峰の雪が溶ける春先まで、この地の冷え込みは続く。雪解けを祖母が見ることはあるまい。見たとしても、彼女が季節の移ろいを理解する事ができたのは、もうずっと昔の記憶なのだ。厚い雪雲に覆われた霊峰を見上げながら、また思った。おばあちゃん、あなたの人生は、幸せでしたか。

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葬送の夏

 五年前、祖母が亡くなった夏も炎暑だった。自家用車から降りて葬祭場へ入るまでの寸秒で、喪服は重たく肌に張り付いた。季節を違える程に冷房のいれられた斎場で、瞬く間に汗は冷えた。
 祖母の病が発覚し亡くなるまでの二年間、病身を押して看護をした母は、葬儀には出なかった。暑さと自身の体調を慮ったのだろう。郷里から離れた場所だったこともあり、葬儀に参列したのは、ごく近い身内だけだった。母の弟である叔父が喪主を務め、通りいっぺんの味気ない挨拶をし、祖母は火葬場で骨になった。親に不義理を働いたこの弟を、母は生涯、許さなかった。そして、祖母はそんな叔父をゆるし続けた。
 五年後の今年、あの夏と同じように記録的猛暑が伝えられる中、同じ斎場の同じ会場で、母の葬儀は営まれた。参列者は想像以上に多く、会場の外側にも椅子が並べられた。僧侶の読経が止んですぐに始まった友人の弔辞では、イザヤ書から言葉が引かれ、神の御許へ召される友人への思いが述べられた。どこかちぐはぐな葬儀に、多くの友人、知人が、母のために集い、涙した。斎場の横にあるショッピングセンターからは、突き刺す日差しに不釣り合いな黒色の集団は、そこが紛うことなく喪の場所であると誇示しているようにも見えたろう。
 田舎の旧家の本家筋に生まれた母は、幼い頃病弱だったせいもあってか、年を経て後もどこかお嬢様気分が抜けない人だった。後年、夫婦喧嘩の時に、「子供の頃、私が挨拶をしなくても向こうから挨拶をされないことはなかった」と宣ったと父は笑ったが、そんな気分がいつまでも残っていた。歯に衣着せぬ、無礼な物言いや態度を、無邪気で愛嬌のある性分でゆるされてきた人であった、と思う。通夜の席で、母の学生時代を知る友人が、「身体も小さかったから、妖精みたいに可愛い人だった」と言った。私は、そんな母を無条件に愛していたわけではない。いつしか、親子関係が逆転し、私が精神的な庇護者となることで、ようやく親子関係は穏やかなものとして成立した。その期間は、長くはなかった。

 生まれたばかりの母に、心臓に先天的な欠陥があることは、早くに分かっていた。この子は二十歳まで生きられないと言われていたと、祖母からは何度も聞いた。母が命を繋げたのは、医療の進歩にかろうじて間に合ったからだ。二十歳を過ぎた頃、当時は最先端であった心臓外科手術を受け、健康な人となんら変わらぬ生活を送れるようになった。私が成長過程にある期間、母がわずかでも健康に問題を抱えていると感じる事さえなかった。風邪もほとんどひかない人だった。唯一、子供の頃運動をしたことがないため、カナヅチであるとは言っていた。そして、母が健康であったのは、子育てをしている二十数年間の期間だけだった。
 子供達がひととおり成人を迎えた頃、母は死病となる原因不明の疾患を発症した。若い頃の心臓疾患とはまったく関係ないと考えられる。徐々に呼吸機能が蝕まれていく病であった。
 余命が一、二年であると言われれば動転するが、十年と言われれば準備には十分な期間である、と言う言葉を、昔、聞いたことがある。だが、それは嘘だ。自分の中の身体機能が徐々に蝕まれ、それがついには自身の生命を奪うことを感じながら、日々を繋いでいく現実は、そのような夢想的な言葉では説明できない。同病の年若い友人達の訃報を繰り返し目にしながら、自分の時間を続けていくことに、どれだけの精神力が必要とされるのか、私にもわからない。母は病とともに十五年を生きた。幸いなことに、その大半の時間は、穏やかに過ごすことが出来た。母の死に際して、少なくない病気仲間が悼んでくれた。やがて自らに来たるものと明確に意識している彼女たちの弔意は、どこまでも真摯で思い遣りに満ちていた。母もまたこうして友人達を見送ってきたのだろう。
 容態が悪化し、苦痛が耐えがたいものとなった時、鎮静剤を用いたセデーションが行われた。長年にわたる病の中で、薬剤に対する耐性ができていたのか、小柄な母に対して医師も驚く程多量の鎮静剤を用いなければ、苦痛を和らげることができなかった。余程大柄な人であっても頬を叩いても目を覚まさないと医師が言うほどの鎮静剤を投与されながら、母は時折目を覚まし、苦痛を訴えた。その度に、手を握り、水を口に含ませ、長く洗っていない髪を櫛で梳いた。少しは気が紛れたのか、病人はかすかに頷いた。それでも苦痛がひかない母に、看護師さんを呼び、鎮静剤を増量し、眠りにつかせた。母は、五年前、死の床にいた祖母とよく似た顔をしていた。臨終を迎える前に、このような表情になるのだとすれば、兄妹のうち誰よりも母に似ていると言われる私もまたいまわの際には、このような表情をするのだろう、と思った。
 死の間際、血中の二酸化炭素濃度が上昇すると、人は、幸せな幻影を見るのだという。それが、長い間呼吸苦に悩まされた人間へ、神が与える最初で最後の恩寵だ。母が最後に見た光景がどのようなものであったか知る術はないが、光と美しさと慈愛に満ちたものであると、信じる。
 

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本家の記憶

 昨年、大伯父房之助が死んだ。九十九歳。あるいは百歳になっていたかもしれない。縁者である母が入院中のことであり、委細はわからない。数年前から、老人ホームへ入居していた。葬儀はひどく簡素で参列者も少なく、当地に長く大地主として羽振りを利かせた一族の最後の当主にしては、あまりに寂しいものであったようだ。
 地元の葬祭場でひっそりと葬儀は営まれた。一族の誇りであった家に大伯父の遺体が立ち寄ることもなかった。
 房之助夫婦に実子はなかった。子供ほど年の離れた末弟の才造夫婦が同居し、才造夫婦の長子である和房が房之助夫婦の養子となった。だが、都会に勤め、家庭を持った跡取りは、もはや寂れた村に戻れる状況でなくなり、独身のまま地元に残っていた和房の弟である三郎がひとり家を守ることになった。
 あの家は、ひとりで老いて行くには広すぎる。今、母屋は閉め切りで、脇にある離れで生活しているのだという。かつて多くの人が暮らした門構えの広い屋敷は、息を潜めるようにし、かろうじて時を繋いでいる。

 本家の敷地の門を出ると、車一台が通るのがやっとの細い路地がある。その路地を挟んだ向かいに小さな石段があった。二、三段ほど下りると、用水路から水が流れ込む水溜場があった。昔は洗い場として使ったのだろう。水溜場の脇には、大きな常緑樹が茂り、真夏でもヒンヤリとした風が吹き込んだ。私が子供の頃には既に使われておらず、鯉が泳いでいたように記憶している。どれくらいの深さがあるのか、と覗き込んでみたが、木の影が濃く、底まで見通すことが出来ない。水は冷たく、井はどこまでも深いように思われた。
 薄暗い水溜場周辺では、そこだけ時間は緩慢に進んでいた。中天から路地に照りつける光に目を細めながら、横へ視界を移すと、暗闇の中に水が浮かんで見える。そんなときに、ふいにあったはずのない過去が幻影のように立ち現れる。
 その昔、本家に下働きの人間が多く出入りしていた、水道もまだ引かれぬ時代だ。子供の頃の私と同じように井を覗き込んだ人がいる。髪を後ろに束ね、着物姿で、その日の糧とする菜を洗っている。暑い日差しには木陰にやすらいだ。日暮れにはヤブ蚊におそわれた。遠くから祭りの笛の音が聞こえてきたこともあった。寒くなれば、水の冷たさは身に染みる。薄氷が張る水へあかぎれの手を差し入れたこともある。芽吹きのやわらかな時期には、水の冷たさも嬉しかった。彼女は、色あたらしい若水にも、水ぬくむ春にも、作業の合間の水鏡に姿を映した。時には、手を止め、映る自分の姿をじっと見つめる事もあったろう。水鏡に映る姿は、幾枚もの磨りガラスを重ねた扉越しに見える像のようにぼやけ、何重にもかすんで見える。それは、名も伝えられぬ私の縁者達であり、その中のひとりは私であったかも知れない。静かな水面をかすかに乱しながら、つい、と鯉が通り過ぎる。


 祖母が嫁いできてしばらく、曾祖父母が健在であった頃、房之助夫妻と三男坊である祖父母、末弟の才造夫妻は、本家の広い家屋に同居していた。次兄と四番目の弟は養子に出されていた。都会育ちの祖母は、あまり気が利く人ではなかったが、利発で朗らかなところが曾祖父に気に入られていたようだった。皆でそれぞれの膳を囲んだ食事時、曾祖父は自分が好きでないおかずなどを「あんた、これ食べられ」とヒョイと祖母の皿に入れたと言う。長男の房之助夫妻には子がなかったので、曾祖父母にとって初めての孫は、祖父母の長子であった。シンちゃんと皆に呼ばれる、その私の伯父は、障害を持って生まれた。
 曾祖父母はシンちゃんを可愛がった。祖母は、その事を最後まで感謝し、曾祖父母についてはついに一言も悪口を残すことなく死んでいった。祖母に言わせれば、曾祖父は、どこか飄々としたところのあるちょっとした趣味人で、曾祖母は村で評判の美人で、実に美しい岡山弁を話す人だった。
 曾祖父は、一番風呂に入る時、必ずシンちゃんを呼んで一緒に風呂に入れた。過去の記憶を私に話す時に、祖母とシンちゃんはお決まりの会話を繰り広げた。祖母がシンちゃんに尋ねる、なあ、シンちゃん、あの時、おじいさんなんて言うたかなぁ。するとシンちゃんは、シンやシン、言うた、と不鮮明な発音で早口に答える。おお、そうじゃ、シンやシン、そう言うたなぁ、と祖母は笑う。祖母とシンちゃんの会話はいつもこんな風に繰り返された。
 シンちゃんの記憶の引き出しには、過去の出来事が当時の鮮明な色のまま、整理されることなく詰め込まれている。引き出しから過去を取り出すのは祖母だ。祖母が唄うように訊ねる。「なあ、シンちゃん。あの人、あの時、なんて言うたかなぁ。」 シンちゃんはすぐにゴニョゴニョと私には聞き取れない不明瞭な発音で答える。それを聞いた祖母はすぐに、「おおそうじゃ、そう言うたなぁ」、と笑顔で解説する。
 シンちゃんはおそらく自閉症なのだろう。幼い頃からの過去の出来事が、シンちゃんの記憶の引き出しには色褪せることなく保存されている。シンちゃんの無尽蔵な記憶の引き出しを開け、きらめくような過去を、形あるものとして取り出すことができたのは祖母だけだった。引き出しの鍵を持つ祖母は既に亡い。今、シンちゃんは、その記憶を誰にも見せることなく、故郷に新しく出来たグループホームで日々を過ごしている。その内面に集積された記憶の輝きに、誰も気付くことがない。

 曾祖父母が亡くなった後、贔屓にされていた祖母は房之助、才造の兄弟夫妻とうまくいかず、隣地に家を建てた。それは、材を選び贅を尽くして建てた本家とは比べものにならない粗末な家であったらしい。祖母が嫁入りする際、本家が所有する田畑の一部を祖父に分け与える約束があったが、曾祖父母亡き後、その約束も反故にされた。死の床についてなお祖母はその事を恨んでいた。弱視であった祖父は、かろうじて工場勤めで日銭を稼ぎ、祖母もまた行商をすることで、家族は糊口をしのいだ。米が実れば実るだけ豊になれた時代、本家では、村で最初の近代的な台所が導入され、村中の人を集めてお披露目が行われたという。今、本家にはその田畑を耕す人もおらず、人に頼んでようやく田畑の形態を保っている。この田畑をめぐり、人が諍い、あるいは喜びに包まれることがあった事など忘れられたように、淡々とトラクターは耕耘し、稲は色づく。
 数年前、何年かぶりに祖父母の家があった場所を訪ねた。家屋は一度生活に余裕が出来た頃に建て直されたが、その後焼失し、今は車庫だけが残っている。焼け跡に立ち、周囲を見渡せば、豊かな里が広がる。美しい里だ。先祖がこの地に長く居を構えた事も頷かれる。だが、人の姿はまばらで、街道沿いには廃屋となった家屋や空き地が目立つ。そんな中、本家の古びた門だけは真新しく作り直され、ひっそりとした屋敷と対照をなしていた。樹種が分からなかった水路脇にあった常緑樹は、クスノキだった。見事な緑陰を作っていた大樹は、あちこちブツ切りにされ見る影もなく、記憶よりも小さな枝振りだった。冷たく澄んだ水が流れていたはずの水溜場は淀み、藻で濁り、鯉の姿も見あたらなかった。
 
 
 

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紅葉の頃

 紅葉の頃、現場での一服休みの時のことだ。
 手伝いの若い人が話した。
 彼が掛け持ちしている現場は、山間の渓流沿いにある。
 車両も入らない細い橋を渡った先、どうどうと絶え間なく響く滝の音にさらされ、滝飛沫を浴びながら、いちにち作業をするのだと言う。
 既に寒さが厳しくなり始めた時期、朝晩の冷え込みは街場の比ではない。その上、重機を持ち込めない現場での作業は、楽な仕事とはとても言い難い。
 だけど、と彼は、少し間を空けて言った。

 今、モミジはすごくキレイですよ。
 すべての色があります。

 彼に来て貰っている現場は、車の往来が絶えない街中の交差点そばにあったが、彼のその言葉を聞いて、眼前にすべての色が入り交じった山の光景が広がった。
 固い地盤にスコップを突き立て、不安定な足場を一輪車で砂利を運び込む。鉄筋、セメントにコンクリートブロック、衣服も道具も土とセメントに汚れている。固く重く冷たい資材と華やかな色彩の環境とのアンバランスさに目眩がするようだった。
 私も以前、その現場付近を紅葉の頃に通ったことがある。
 冬至に向かって衰えゆく日差しは影を斜めにし、紅葉はその光を受けながら静かに葉を揺らしていた。澄み切った渓流は、木々の色を映し、綾に錦に色を織りなす。ときおり水しぶきと一緒に光が跳ねる。そして、次の瞬間には輝きは消え、また色彩がたゆたうように流れているのだった。
 色彩は幾重にも塗り重ねられ、それでいてそれぞれの色は濁りなく、明るく澄んでいる。紅葉を単色の赤や黄色であると思ってしまうのは何故なのだろう。彼が言ったように、そこでは全ての色が明滅し、ひそやかに、光のあわいを息づいている。
 色彩を全身に受けながら作業し、途中ふと目を上げて光を呼吸する。それは、この環境で働く人間の特権である。だが、その豊かさに気づく人は少ない。

 今、目の前に、照葉樹林と落葉広葉樹林を色分けして描いた日本地図がある。ちょうど日本列島の中心の内陸部を包むように、西側から照葉樹林帯が広がっている。よく見れば、大きく口を開けた鰐か何かの生き物が、落葉広葉樹林を呑み込もうとしているようにも見える。あるいは、落葉広葉樹林の方が、水流のごとく鰐の内部に陥入しようとしているのかもしれない。
 この地は、ちょうど照葉樹林と落葉広葉樹林の境目に位置する。
 季節毎に繰り広げられる景は、照葉樹林の地域に育った人には、おそらく想像し難いだろう。
 季節の移ろいと太陽高度の変化にしたがって、山々は光を蓄え、さまざまに色を放つのだ。山そのものが色に染まり、色に揺れる。そんな光景が惜しげもなく、毎年毎年、繰り広げられる。記憶の遙か向こうの昔から、延々と繰り返されてきた。
 いくたびも人は山へ足を踏み入れ、はらはらと舞い降りてくる紅葉を浴びた。人にも獣にも同じように、落ち葉は降り積もる。その上を歩き、あるいは斃れた者の上へ降り積もり、降り重なり、やがては何事もなかったかのように季節は移ろう。
 それはたとえば、化生の者がいきづく舞台模様と一続きだ。
 なうなう、そこなおひと、と呼ばわれ、振り返れば、あでやかな打ち掛けを纏った上臈が手招きをする。
 勧められるままに酒杯を傾ければ、頭上で梢は波打つようにたゆたい、風に踊りながら杯に一葉、また一葉と降りそそぐ。
 促されるように、一差し、と上臈は静かに舞い始めた。ゆらゆらと光は動き、また揺れる。上臈の漆黒の長い髪に楓の葉がひとひら、ひとひらと舞い落ちた。まばゆいのは光の角度だろうか。一年かけてたくわえてきた光をいま、木々はいっせいに放とうとしている。舞の動きとともに、光は徐々に華やかに明度を増す。光彩が目にささるようだ。目を開けていられない、と思った瞬間、ざあっと強い風が吹き、視界いちめん極彩色で塗りこめられた。
 目を開ければ、上臈はおらず、ただ色だけが浅く深く光に揺らいでいる。

 夢見心地で、眼下を見下ろせば、とおく滝が飛沫を上げながら落ちてゆく。
 滝のふもとでは、若い人がスコップを手に地面と格闘しているのが小さく見える。一輪車に満載された残土を運ぶ彼らの上にも、紅葉は降りそそぐ。川面に木々の色取りを映した光は、彼らも同じように映す。金銀模様綾錦に色を取りなして、水煙を浴びた肌もまた美しく染まる。
 11月も半ばを過ぎた。今晩は霜が降る。山々もまた眠りにつく。

2010年04月22日(木)

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時代の終わりによせて

 私が幼い頃、散歩の道すがら、祖母が少し離れたところに見える小高い丘状の山を指さしながら言ったことがある。ご先祖様はな、あそこにあったお城の御家老様じゃったんだけどな、悪い家来がおってな、追い出されてしまって、ここに住むようになったんじゃ。祖母がまるで見てきたように語るので、幼い私は、その出来事は「おじいちゃんのお父さん」か、「おじいちゃんのおじいちゃん」の時代におきたことなのだろう、と長く思っていた。子どもにとって、「おじいちゃんのおじいちゃん」は、自分に手触り出来る限りの、無限に過去に遡る事を意味する。それは、言うなれば、歴史化される時代と現在とのはざまであり、自分にとって、親しみのある手触りの出来る過去である。そして、現代のような歴史研究が進む前の時代にあって、大多数の人間にとって、歴史とはそのようなものであっただろう。歴史とは、自分たちに直接つながる親しきものであり、それ以前の過去は、神話であり、伝説/言い伝えの範疇にまとめられてしまう。
 私の場合も現代の歴史教育を受け、「おじいちゃんのおじいちゃん」が御家老様であったというのは、時代的にあり得ないことに気がつくこととなった。何かの折に、調べてみたところ、祖母の話は、戦国時代の前半、つまりは室町末期の事であることがわかった。在地豪族であった一族が、その地に住み着いたのはいつ頃からなのかは定かでないが(好事家の説に寄れば、平安末であるという)、ある程度の勢力をなし、やがて城の主となり、戦国の世でより強大な勢力の軍門に下った後、家老として遇せられ、やがては別の勢力に追われ、在地の大庄屋として長くその地に居を構えた、というのが一通りの歴史であったようだ。

 母の実家の隣には、祖父の生家である「本家」の古い建物があった。江戸時代後期か明治/大正年間に建てられたのかしたのであろうその家屋は、まるで時代の流れが止まったかのように佇んでいた。入ってすぐに広い土間のある建物の中は薄暗く、大黒柱と上がり框が黒光りしていた。黒く艶のある木材の表面は、子供心にも美しいと感じられた。南側の濡れ縁に面した座敷にだけは、明るく光が差し込んだ。座敷は開け放たれていることもあったが、たいていは飴色の木戸が閉ざされたままになっていた。奥に入るに従って、内側の部屋は暗くなる。建物の中央部の部屋では、真っ暗闇の中に、物が山と積まれており、とても整理されているとは思われなかった。その部屋を抜けた北側には、昔、お殿様がこの地を訪れた際に入浴した浴室がそのままに残してあるのだ、と伝え聞いたことがある。だが、実際に目にすることはなかった。おそらく、そこも長く手入れもされておらず、見せられる状態にはなかったのだろう。
 祖母と母は、大伯父の代になってから、家屋の手入れが悪くなったと不満を口にした。地元の教育委員会が調査に入った時に、大伯父が行った、母曰くの「滅茶苦茶な改築」のせいで、家屋は文化財としての価値がないと評価されたという。それさえなければ、景気が良かった頃に、何らかの保存指定を受けられたかも知れないのに、と悔しがった。

 母屋の横には、今は農機具置き場になっているが、馬か牛を飼っていたという二階建ての家屋があり、母が子どもの頃には、二階には作業を手伝う下働きの人が住み込んでいたという。収穫の時期には、広い前庭に収穫物が積まれ、作業する人々が多く出入りしたのだという。私が記憶するのは、まだ少しは若さが残る大伯父や大伯母が農作業を行う風景だ。私が訪れる時期は、いつもきまって干瓢の時期だった。輪切りにした大きな瓜の中央に棒を指し、くるくる回しながら、帯状に瓜を加工していく。帯状となった瓜は、熱い日差しの中、筵の上に干されていた。どこか湿っぽい匂いのする干瓢は、子どもの好む食べ物ではなく、なぜこのような奇妙な食べ物を大伯父達は毎年毎年作り続けているのか、不思議に思っていた。だが、作り続けることに特段の理由など必要なかったのだ。いつ頃からかも定かでない昔から毎年していたことを同じように反復していただけだったのだろう。そして、その記憶だけで作り続ける理由としては必要充分だったのだ。永遠に続くかと思われた季節の行事も、やがて大伯父達が年を取ると、見ることもなくなった。

 周囲を土塀に囲われた門構えの屋敷は、一族の誇りを象徴する建物であった。親戚の人々が、「本家」と口にする時の、どことなく誇らしい口ぶりを覚えている。だが、若い世代は皆出て行ったきり戻ってこず、やがて広い建物には、齢九十九歳になる大伯父がひとりきりとなった。心配する周囲をよそに、自分は古い大木が静かに朽ちていくように、この家と共に朽ちていくのだ、と頑張っていたが、日々の家事食事もままならない中、そうも言っていられなくなり、介護施設の厄介になることになった。今は、病を得て戻ってきた伯従父がひとり暮らすきりだ。都会で公務員をしている「本家」の跡取りであるもう一人の従伯父は、祖父の三周忌の時に、「あの家はどうにもなりませんわ。」「取り壊すしかありませんやろ。」と苦笑いしながら言った。そして、長く大した維持管理をされていない建物は、ただ取り壊される日が来るのを待っている。
 大伯父が亡くなれば、古い家は、じきに取り壊されるのだろう。そして、古さだけが誇りであった一族の歴史も終わる。私が、祖母がそうしたように、下の世代に、お城に住んでいたというご先祖様の話や、お殿様の入ったという風呂場の話をする機会は、決して巡ってこない。私がその話を知る、最期の世代になるのだろう。そして、名実ともに一族の当主であったのも、大伯父が最期の代だ。中世末に城を下りてから数百年にわたって、同じように、あるいは少しずつ変化しながらも繰り返されてきた日々は、今後、どれだけ時代を経ようとも受け継がれることはない。歴史書に残るような華々しい行跡があるわけではなかったが、ひそやかに、しかし確かに続いてきた歴史が終焉を迎えようとしている。その事にも、そしてそれが意味する事にも、誰も気づくまい。そういう意味で、大伯父の言葉はきっと正しいのだ。今の時代、どこにでも、よくある話、そんな無関心の静寂に包まれながら、黙って、歴史は朽ちていく。歴史は自然に終わるのではなく、我々が終わらせたのだ。歴史の終端を担う位置にある私が、朽ち果てていく様を見届けたいと願うのは、ただの懐古趣味からではない。それが、現在の我々の姿を、如実に映し出しているからだ。そんな鏡を持てるこの時代は、まだ幸いである。そうした鏡すら持たない次の世代は、どのような時代を生きることになるのだろうか。

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「サブあんにゃとサヨンバ」

 この集落に引っ越してくるなら、まずは組長さんに挨拶を、と役場の人に連れられて訪ねたのはサブあんにゃの家だった。「オレは、ヨソモノなんか大嫌いだ」と公言して憚らないサブあんにゃは、私たちの頭のてっぺんから足の先までマジマジと見渡して、ニコリともせずに言った。「ここに引っ越してくるなら、組には入ってもらわないと困る。」 そして、後はムスッとした顔つきのまま、まったく言葉を発しなかった。横にいたサヨンバは、私たちの職業が植木屋で、下の町まで通って仕事しようと思っています、と言うと、首をゆっくり横に振って一言、「容易でねぇ」とだけ言うと、顔を横斜め下に向けたきりだった。そんな感じで、サブあんにゃとサヨンバとの出会いは始まった。
 後日、引っ越し後の挨拶に行くと、相も変わらずニコリともしないでサブあんにゃは、組に入るなら組内の人を全員家に招いて一席設けろ、と言う。よくは分からないが、それがしきたりだというのなら仕方がない、と乏しい資金の中から、村の仕出し屋に料理を頼み、酒を買い込み、用意を調えた。座布団やテーブルはあるのか、とサブあんにゃが訊くから、ありません、と応えると、うちのを貸してやるから持って行け、とよく手入れされたフカフカの座布団と、会議用の座卓を軽トラに乗せて貸してくれた。今でも葬式を自宅で執り行う田舎の家では、冠婚葬祭の道具一式が揃えてあるようだった。
 当日、時間より十五分前に、最初にやってきたのは、サブあんにゃだった。入るなり、家の中をぐるりと見回し、こんな風にしたのか、と呟くと、どっかと座布団にあぐらをかき、口も聞かずに、目を大きく見開いて、あたりを見渡していた。集合時間よりかっきり五分前になると、次々と組の人たちが訪れてきた。誰かが「組からの差し入れだ」と、ビールを2ケースと日本酒を持ってきて、私たちが用意した料理には、あまり手を付けなかった。今から考えると、遠慮して、皆、自宅で食事を済ませてきたのだろう。いったいどんな会話が繰り広げられたのかは覚えていないが、この集落は、サブあんにゃとアキオさんのふたりの長老がいて、それ以外は四〇代の比較的若い世代が多く、仲の良い組内であるらしい事は感じられた。八時頃になると、示し合わせたように、皆、酔っぱらい顔で挨拶をして帰って行った。
 翌日、お礼の一升瓶と菓子折を持って、座布団と座卓を返しに行くと、心なしかサブあんにゃの表情が和らいでいるようだった。取れたばかりの畑の野菜を持って帰れ、と言ってビニール袋に入れて持たせてくれた。中の野菜があまりに見事にまるまるとしているので、夫が「さすが組長さんですねぇ。こんな立派な野菜、スーパーじゃみたことありません」と言うと、「相好を崩す」という表情はまさにこのことを言うのだろう、これまでの顰め面が嘘のように破顔し、「孫ら来たときに持たせてやってもいつも大喜びして帰るんだ」、と声を立てて笑った。それ以来、サブあんにゃと会話するときには、必ず褒め言葉をどこかしらに入れるようにした。すると、決まって、あんにゃは、これ以上はないというくらい、相好を崩して笑うのだった。
 この組での一番難しい人は、サブあんにゃであるようだったので、分からない事は、組長である事を幸いに、まずサブあんにゃに訊ねる事にした。ちょくちょく顔を出しているうちに、サヨンバともお茶を飲むようになった。お茶受けに出てくるサヨンバの手料理は、抜群に美味かった。出てくるのは、このあたりでお決まりの漬け物や、季節の野菜の煮物や炒め物で、取り立てて珍しいものではない。だが、いったい何が違うのだろう、というほど美味さが違っていた。サヨンバの料理目当てに、サブあんにゃの家を訪ねるのは、私の楽しみになった。
 サブあんにゃの家は、親の代にこの集落に開拓で入った。当時は、森ばかりで、田畑もなかった。木を伐り、炭を焼き、空いた土地を耕し、畑にした。だが、水の関係から、畑はできても、田んぼだけはなかなか作る事が出来なかった。自給自足の暮らしの中で、どうしても米を食べたかったサブあんにゃの兄は、脇を流れる小さな水路の流れを変えて、田んぼに入れる水を確保する事にした。空いた時間を見つけては、手作業で、夜も遅くまで、大きく蛇行した流れを真っ直ぐに変わるよう、地面と格闘し続けた。それは大変な作業だったという。そして、流れがまっすぐに変わって間もなく、彼は死んでしまった。「今なら、重機があるからすぐでしょうけど、手作業では大変だったでしょうねぇ」と相づちを打った私に、サヨンバはお茶を飲みながら「そうよ、人生無駄にしちまったわ」と、実につまらなさそうに応えた。今でも、その田んぼでは、サブあんにゃとサヨンバが米を作っている。だが、寒冷地であるこの地では、味の落ちる極早稲種しか生育しない。サヨンバは、うちは今は酒米しか作ってない、米は酒屋に売って、自分らは会津の美味い米を買って食べている、と言ってイタズラっぽく笑った。

 ある日、おゲンさんのうちでお茶を飲んでいる時にサブあんにゃの話になった。あんにゃのところには顔を出しているのかい、と聞かれたので、たまに行って、野菜をもらったりしています、とても立派な野菜ですね、とお礼を言っています、とこたえると、おゲンさんは、うんうんと頷き、それでいいんだ、と言った。それから、おゲンさんの話が始まった。半分以上は聞き取れなかったのだけれど、まだずっと若い頃、おゲンさんとサブあんにゃはケンカになったことがあるようだった。それは、おゲンさんから見れば、ずいぶんと理不尽で、非はサブあんにゃ側にあるのだけれど、向こうが絶対に折れない事は、性格的に明らかだった。長い間、口も聞かない状態が続いていたが、おゲンさんは思い立って一升瓶を持って、あんにゃの元を訊ねた。そして、一升瓶を玄関先にドンと置いて、切り出した。「あんにゃ、わかった。これで、手打ちにしよう」 たぶん、そんなことを言ったらしい。その時の話をするおゲンさんの様子は、頬が紅潮し、コタツの上に一升瓶を持った手の形もそのままに、まさにその時を再現しているかのようだった。とにもかくにも、おゲンさんが頭を下げる形で、一件は収まったらしいが、今でもおゲンさんには悔しい思いが残っているようだった。
 その話のついでに、おゲンさんはサヨンバとサブあんにゃのなれそめを教えてくれた。サヨンバは、元々、同じ村内でももう少し低地にある農家の生まれだと言う。低地側の集落は歴史も古く、開拓部落であるこのあたりの集落は、村内でも低く見られている。あるとき、サヨンバを見初めたサブあんにゃは、誰にも断りもなくサヨンバをさらうように連れて帰り、親にも言わず、自宅の納屋に隠しておいたのだという。もちろん、サヨンバの家では、大騒ぎだ。しばらくしてから、事が露見しても、サブあんにゃは、詫びようともしない。間に入った村の有力者はずいぶんと苦労をしたそうだ。そんな昔があった事など嘘のように、サヨンバとサブあんにゃはいつも二人で行動していた。サブあんにゃの運転する軽トラの横には、必ずサヨンバが座っていた。

 サブあんにゃは、古い農家屋に、サヨンバと二人暮らしだった。座敷の床はきもち斜めになっていたが、いつも塵一つなく、調えられていた。息子一家は、下にある街の会社に勤め、家を構えている、と言う話だった。座敷の鴨居には、息子が建てたという真新しい住宅の航空写真が飾ってあった。サブあんにゃの家のすぐ下には、甥であるマサミさん一家が住んでいた。あるとき、マサミさんの家で、お嫁さんのトミさんと話をしていたときだった。「サブあんにゃがいけないんだよ。」 そう言って、トミさんは話を続けた。「昼ご飯だってなんだって、十二時っていったら、十二時のサイレンかっきりに食卓に並んでないと機嫌悪いんだと。」「お嫁さん、かわいそうにねぇ。」 数年前まで、息子さん一家は同居していた様だった。今は、下の街に住む息子さんだが、組の草刈りなどの行事の時には、毎回欠かさず参加していた。だから、私たちも顔見知りであった。とある夜のことだった。うちの玄関前で声をかける人がいる。出てみると、一升瓶を持ったサブあんにゃの息子だった。何事かと思ったら、彼がしゃべり出した。自分たちはこれから先もずっと下の街で暮らす事になった。親父達のこと、よろしく頼みます。いつもの集まりでは見た事のない硬い表情でそう言い、一升瓶を差し出した。組内をすべて挨拶して回っているようだった。
 私たちが組から引っ越すときも、一軒ずつ挨拶をして回った。挨拶をしながら、その時の、彼の思い詰めた表情を思い出した。私たちが挨拶をしたとき、サブあんにゃは、そうか、と一言だけだった。サヨンバは何も言わなかった。「お茶飲んでいきな」とだけ言い、蕗の煮物を出してくれた。抜群に美味いはずの煮物の味も、よくわからなかった。息子さんの挨拶に応える事ができなかったな、とそれが一番の心残りだった。

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「おゲンさんとショウジさん」

 畑を貸してくれる、というので、今の季節は何が植えられますか、と尋ねると、即座にジャガイモだっぱい、と応えが返ってきた。続けて、植え方、わかるのかい?と聞かれるから、分かりません、と返事をすると、教えてやっから、明日また来な、と声をかけられた。
 おゲンさんとの顔合わせはこんな感じで始まった。
 翌日、昼過ぎにヒョコヒョコと出かけていくと、もう既に万事用意を調え、野良仕事スタイルのおゲンさんが待っていた。種芋も余ったヤツをわけてやるから、と、スイスイとジャガイモの芽を避けながら切り分け、切り口に灰を塗していく。そして、クワを手に、腰をひょいと屈め、畝を立てたかと思うと、棒を立て紐を張り、今度は、真っ直ぐに植穴を掘っていく。おゲンさんの歳は、確か七十過ぎ、こちらはまだ二十代であるが、動きの早さにとても付いていけない。ほとんど、ただ呆然と見ているうちに、ジャガイモの植え付けは終わっていた。
 私たちが移住してきたのは、五月だった。柏餅、作ったから持って行きな、とビニール袋に詰めてくれたのは、餅ではなく、米粉で作った柏餅だった。食べると甘い、甘い味がする。そんなに大きなサイズというわけではないのだけれど、両手でもって食べるのがぴったり来る。夏までの間に、何度となくご相伴にあずかる事になった。
 おゲンさんの旦那さんのショウジさんは、少し認知症気味だった。おゲンさんの家を訪ねる。まずは、こんにちは、と挨拶をするが、問題はその後だ。堀こたつでお茶をいただいて話をしている時も、外で飼い犬に吠えられながら立ち話をしているときも、夫が松の剪定をしているときも、ショウジさんは人の良さそうな笑顔を浮かべてやってきてはこういう。「どこから来なすった?」「それは、それは、タイヘンでした」「こんな山奥で驚きなすったでしょう」 会話をしてしばらく経つとまた「どこから来なすった?」と始まる。ショウジさんと幾度同じ会話を繰り返したか分からない。
 現在の記憶が怪しくても、昔のことならよく覚えていることがある、と聞いた事があるので、この辺りの昔の様子を尋ねてみたことがある。「ショウジさんの若い頃、このあたりは、どんなでしたか?」 すると珍しく淀みなく返事が返ってきた。「はぁ、今とは違って不便だったわ」「獣がいっぱいいたけど、みんな殺して食べちまったわ」「イノシシだのウサギだのキツネだのタヌキだのクマだの、みんな食っちまったわ」 現在、阿武隈山中に熊は生息していないと言われている。当時はいたのだろうか、と思い、クマもいたんですか、と重ねて尋ねてみると「ああ、いたいた。みんな食っちまった」と言う。「人間もいろいろいたわ。博打打ちから泥棒から人殺しから」 人殺しもいたんですか? と尋ね返すと、「いたいた、今じゃほれ、その辺に埋まってるんじゃねぇか」と山の方へ視線を移した。結局、ショウジさんの昔の話は本当なのか嘘なのか分からないままだった。けれど、人影の薄い静かな山奥で、透明な月明かりの下に、半世紀前の死体が埋まっている、というイメージは、幻想的なリアリティがあり、ふっと月夜の晩に山陰を見てはショウジさんの言葉を思い出すのだった。
 お嫁さんのハルミさんはふくふくとした笑顔の可愛い人で、とても働き者だった。歳は四十を超えたところで、孫もいるというのだけれど、とてもそんな風には見えない、肌のキレイなひとだった。初夏から夏に向かい、雑草はたくましく生長する。広い田畑を持つ農家では、草刈りが追いつかない。日中の仕事を終え帰宅してから日没までの間、刈り払い機の音がどこからでも聞こえてくる。ハルミさんの旦那さんのミノルさんは、蛇を見かけると耕耘機をおっぽり出したまま家へ逃げ帰ってくるほどの蛇嫌いだったので、草刈りは専らハルミさんの仕事だった。ハルミさんは実に手際よく、リズムよく草を刈る。季節の花を残しながら、雑草だけを上手に刈っていく。だから、夏を迎える頃、おゲンさんの家へ向かう道路脇の斜面は、ヤマユリ、オミナエシ、ナデシコ、キキョウなど、今はすっかり珍しくなってしまった野の花が咲き誇るのだった。花々が静かに風に揺れる様子は、ハルミさんのふくふくとした笑顔に似て、優しく、美しかった。
 ある日、ハルミさんとおゲンさんに、ショウジさんがふっと真面目な顔をして呟いた。「オレ家(げ)は、ムコにはぐったなぁ」 このあたりでは、いいお嫁さんやお婿さんをもらったときには、「ヨメ(ムコ)に当たった」と言い、逆の場合は「ヨメ(ムコ)に外れた(はぐった)」と言う。ミノルさんは、ムコではなくショウジさんの実の息子である。そのショウジさんの何気ない言い方が、実に真に迫っていて、ハルミさんとおゲンさんはいつまでも笑いの種にしていた。そう、端から見ても、ハルミさんは実に働き者のお嫁さんだった。
 ショウジさんは、犬を連れてふらりとどこかへ出かけてしまうことがあった。頭だけでなく、足下も危なっかしくなって来ているので、いつか大きな擦り傷と打撲痕を作って来た事もあった。おゲンさんは、そんなショウジさんの様子を見ていなくてはならないので、近所にお茶のみにも出かけられず、一日家にいることも多かった。とある夏の盛りの暑い午後、ショウジさんがまた犬を連れて出かけようとしていた。それを見つけたおゲンさんが、部屋から大声で叫ぶ。「じっじ-、行ぐな-。」「じっじー。戻ってこ-。」 それでも足を止めようとしないショウジさんを追いかけて、さらに大声で叫ぶ。「じっじー、こんな暑いときに死んだら、組のみんなから恨まれるー」「じっじー、死ぬから、行ぐなー」 この言葉が効いたのかどうかは分からないが、程なくショウジさんは引き返してきた。おゲンさんはそれを見届けてから、「こんな暑い時期に葬式出したら、なんでもかんでも腐っちまってタイヘンだ」と私に話し出した。いつか組内で真夏に葬式を出したときの事だ。「朝にご飯炊くばい、そうして握っておいた握り飯が、昼には腐っちまうんだもの。」「煮物でも何でもかんでも腐っちまって、イヤになっちまう。」 この辺りでは、未だ葬式は葬祭場より組内で出す事の方が多い。おゲンさんの叫びは、まったく真実味を帯びていた。
 その後、私たちがこの集落を出た年の冬、ショウジさんが亡くなったと人づてに聞いた。朝、布団の中で静かに息をしなくなっていたそうだ。葬式の日は年の瀬も差し迫った大晦日で、折も悪しく、その冬一番の積雪量を記録した日だった。葬式の参列者は、皆、長靴に傘を差し、凍えながら出棺を待ったのだと言う。してみれば、あの時のおゲンさんの言葉は、ショウジさんにはよほど身に応えたのだろう。おゲンさんは、きっと葬儀の間中、苦い顔をしていたに違いない。草葉の陰で、ショウジさんが笑いながら舌を出しているような気がした。

 

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