昔の建物は、人間の暮らしよりも建物を長く保たせることを優先した、と、私も笑いながら軽口を叩いていた。
だが、正月に奈良を散策して、考えが変わった。
そこにある建物も仏像も、人ひとりの寿命よりも遙かに長い歳月、存在し続けている。
その意味を考えた時、これらを人間よりも優先するという発想が、不意に腑に落ちた。
人の寿命は有限である。
その事実を受け容れる事は、どの時代であっても、簡単なことではなかったろう。
なぜならば、人間は「継続」を生活の基盤とするからだ。
それゆえ、人は死後の世界を想像した。
(死後の世界を考え出さなかった文明など存在するのだろうか?)
そして、永続の願いを込めて、人の寿命よりも遙かに長い建物を建て、彫刻を生み出した。
それら物体に自分自身の一部、おそらくは何か最も重要な部分を同一化させることができるからだ。
それは、人の祈りであり、希望であったろう。
そうして保たれた建物は、その建物に関わった人々の記憶の集積地として機能する。
その建物がある限り、記憶は地層のように積み重なる。
後世の人は、その建物を取っ手にして過去を引き出すことができる。
それが正しい歴史である必要はない。
ただ、過去を想起するという行為が、自分と過去、そして、自分のいない未来とを、ひとつながりのものとして結びつけるのだ。
建物、あるいは集落、あるいは街であっても構わない。
どの文化にあっても、これらは無限と思われる時間を結ぶ紐帯である。
それゆえ、建物は、人の寿命よりも長い歳月、存在し続けねばならない。
人の暮らしよりも建物を優先するのは、まだ生まれぬ者、既に死に行った者、そしてやがていなくなる自分自身をそこに留め続けるためだ。
それに比して、建物周りの空間、特に「庭」と呼ばれる空間は、容易に変化する。
植物の変化する特性に加えて、建物に比べれば、外回り空間はほんの僅かな状況の違いで、求める空間、使い方が大幅に変わってくるいう本質的な違いがあるためだ。