病を得た知人から、もし余命に限りがあると分かった時にあなたならどのように処するか、と問われた。
 こうした仮定の質問への返答は決めてある。
 「その時にならねばわからない」。
 それ以上に考える意味も、必要性もない。
 その時に出来ることをするしかない。なるようになるしかない。
 頭でわかっていても、現実はそうはいかないだろう。
 だが、それを含めて、なるようになるしかない、するようにするしかないのだ。

 おそらくもっとも不毛な時間の過ごし方が、余命に限りがある自分の生とひたすら向き合い続けるというものだろう。
 そこで明らかになるのは、自己の有限性と卑小さばかりである。大概は、向き合った末に、宗教でも歴史でも伝統でもよい、自分以上の大きな、永続性のある対象との同一化がはかられるものであるが、同一化が不可能である場合、卑小さの底で死ぬことになる。
 小山俊一は、この死に方を選択した。
 人間を個物として考えれば、人間の有限性も、卑小さもすべて逃れがたい真実である。それに個の存在を極小化する戦争体験が被されば、なおさらのことであろう。
 小山にとって、自分が卑小な存在であることは、自明の理であった。それゆえ、彼は自分の生と死をじっと見つめ続けながら死ぬことを選択し、それ以外の死に方を自己欺瞞として退けた。
 だが、その考え方は、人間の部分に過ぎない。個としてのみ生きること、死ぬことが人間に可能であるという思考もまた、「つもり」でしかないのだ。死後、紫色のメンシュハイトと同一化すると信じた中江丑吉の〈信〉を否定した小山であるが、個として死ぬという発想も一つの〈信〉に過ぎまい。集団として存在しない人間など、存在しない。我々は、存在の底から、集団として存在するように規定されているのだ。そこに人間のもっとも救いがたい部分も、美しい部分も内在されている。それを否定する在り方は、小山自身が何度も書くように、「つんぼ道」であり、どん詰まりである。
 私は、そうした死に方を選んだ小山に敬意を抱きこそすれ、否定はしない。だが、小山の道を追従するのは、実に不毛であるし、小山自身も望むまい。

 自分自身に関して言えば、願わくば、心穏やかに死にたいものだ。凡庸であるが、それだけを願っている。自分自身のためでもあるが、それが残された人間への最後の贈り物であるからだ。

追記;

 「最後の贈り物」という言い方を、私は、意図的に用いている。あるいは、半分は信じていないかもしれない。だが、私は、この贈り物の絶大な効果を、身をもって知っている。故に、「嘘も方便」として、私は自らもこれを信じる。個物として死に対した時の人間の惨めさは、見たことがある人間にならわかるだろうが、実にイヤなものだ。あれを回避するために、数限りない自己欺瞞と嘘が生み出されてきたとするならば、私は、それを生み出した人間の営為を、欺瞞ではなく叡智と呼ぶ。

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