序詞、縁語

 謡曲の文字を追っていくと、漢語の使い方がこなれていない事に気がつく。
 和語が地の文の中で、漢語は、仏教用語、あるいは漢文引用時に用いられているのが大半である。
 和語の語彙は、よく言われることであるが、感覚的、情緒的な実感をあらわす語が主であり、抽象的、論理的な語彙は非常に少ない。
 それゆえ、和語主体の文章では、 いくら筆を尽くしても、立ち上がるのは、感覚や情景で、それにより何かを論理的に構築したり、積み上げたりすることは難しい。
 日本において、公的な文章は、長らく漢文で書かれていたというのは、言葉の特性として至極当たり前のこととして感じられる。
 和語と漢語の混交が見事に日本語として結実したのは、明治期であると白川静が書いていたが、実のそのとおりだと思う。
 明治期以降の日本語は、和語の感覚性を失わず、漢語の硬質な抽象性を存分に引き出せている。(しかし、漢文の素養がなくなる戦後は、その資産を食いつぶしているだけだ。)
 思えば、明治期に和歌が短歌と名を変えて復興したのも、日本語の変革による影響が大なるところなのだろう。
 それまで、和歌の決まり事として使える語彙数が限られていた、ということもさりながら、新たに使える漢語由来の日本語が出現したということは、歌人にしてみれば、広大無辺な地平が忽然と出現したに等しい感覚であったのではなかろうか。
 それに、社会状況の変化、人間の意識の変化などが重なり合って、近代短歌の黄金期は出現したのだろう。

 和語だけの文章では、徒に文章は長くなるが、長さに比して、内容を濃密にすることは非常に難しい。
 単旋律の音楽を独奏で聴いているような雰囲気だろうか。
 ただ、謡曲を読んでいて思うのは、こうした和語の特性を生かしつつ、足りない部分を補うべく工夫はなされていた。
 枕詞、序詞、縁語、掛詞などがそうだ。
 起原的に見れば、枕詞や序詞は呪詞、国誉めなどであったような記憶があるが、起原から離れるに従って、別の機能の側面が強くなってきているように感じられる。

 謡曲「百万」から引用してみる。

 奈良坂の、児手柏の二面、とにもかくにも佞(ねじけ)人の、亡き跡の涙越す、袖のしがらみ隙なきに、思ひ重なる年なみの、流るる月の影惜しき、西の大寺の柳蔭、みどり子の行方白露の、起き別れて、いづちとも知らず失せにけり。ひとかたならぬ思ひ草、葉末の露もあをによし、奈良の都を立ち出でて、かへり三笠山、佐保の川をうち渡りて、山城に井出の里、玉水は名のみして、影映す面影、あさましき姿なりけり。かくて月日を送る身の、羊の歩み、隙の駒、足に任せて行くほどに、都の西と消えつる。嵯峨野の寺に参りつつ、四方の景色を眺むれば、花の浮木の亀山や、雲に流るる大堰川、まことに浮き世のさがなれや、盛り過ぎゆく山桜、嵐の風松の尾。小倉の里の夕霞。立ちこそ小忌の袖、かざしぞ多き花衣。貴賤群集する、この寺の法ぞ尊き。かれよりもこれよりもただこの寺ぞありがたき。

 序詞や縁語を多用することによって、平面的な情景が立体的に、奥行きのあるものに変化し、また画面に動きも感じられる。とは言っても、映画で言えば、カメラを退いて撮影する長映しの画面のような静かな動きではあるが。
 しかし、こうした固有名詞や古典が頻出する序詞や縁語の多用による画面の複層化には、共通の文化基盤が必要とされる。
 京都、奈良など現在で言うところの近畿圏を中心とする濃厚な文化基盤があればこそだ。
 社会秩序や、文化の中心地が拡散、あるいは移動すれば、困難になる、限定的な手法であったろう。
 江戸期の文章は、奥の細道くらいしか読んでないのでわからないが、おそらく江戸期にはかなり陳腐化していたのではないかと思う。

 今回走り書きしたメモのうち幾つかは、以前読んだ本の中に触れられていたことかも知れない。

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