母が再入院し、前回同様進退窮まった状況にある。
 好転する見込みはほとんどなく、かと言って、危篤という状態でもない。
 治療をしないわけにはいかないが、対症療法であり、それにより状態は一層悪化する可能性が高い。
 けれどしないわけにはいかない。

 この一年、うんざりするような一年だった。
 母の病に伴う実際上の大変さよりも、自分の身内との齟齬が主たるものである。
 私は、やはりこの家族が苦手であったのだな、と痛感する一年であった。
 落ち着いたらもっと距離を置いて書くこともあるだろう。
 
 一人を介護するためには、最低でも1.5人の人手がいる、と言う。
 1人は、主に介護をする人間、つまり仕事の片手間でなく専属的に介護をする人間。
 0.5人は、主たる介護者を休ませるために必要な人員だ。
 現在は、介護保険サービスが存在するが、必要な被介護量の増加に、介護保険サービスは追いついていない。
 というよりも、むしろ、介護を介護保険サービスのみで賄うのは、土台、経済的に不可能であるのだ。
 コストがあまりにかかりすぎる。
 身内であれば、子供でも出来ることがある。昔はごく普通に子供もしていたことだろう。
 「ちょっとおばあちゃんを見ておいて、様子がおかしかったら周りの大人に言うのよ」
 これを外注しようとすると、それだけでバカらしい程のコストがかかる。
 核家族化の急速な進展で、家族全体で被介護者を支えるということが不可能になった現在、こうした事まですべてが介護のコストとして跳ね返る。
 そして、現在の日本は、その対策をなにひとつ取っていない。
 団塊世代が真の高齢化を迎える10年~20年後、想像するのもげんなりするような事態が各地で発生するだろうと、私は強く確信している。
 出来ることは、せいぜい自己防衛くらいだ。

 もう一点、核家族化と同様に問題となるのは、行政サービスへの依存心の強さだろう。
 どの程度一般化することが可能なのかはわからないが、少なくとも私の身内あるいは身内の側にいる団塊及び団塊ジュニア世代は、行政サービスや社会・他者への依存心がきわめて強い。
 公共的感覚をほとんど持ち合わせていないと言ってよい。
 一般論としては、公共的感覚を持ったことを言うが、自分自身に降りかかるとなると、全く他人頼みである。
 私自身の生活圏には、こうした甘えた感覚を持った人間は少ないので、驚きであった。
 その当事者意識の欠如ぶりは、私が育ってきた社会環境の「常識」や「規範」を疑わせるのに十分すぎる程であった。
 いったいどの程度の比率でこのように依存心が強い人間が存在するのかわからないが、おそらく決して少ない割合ではないだろう。
 彼らが介護・被介護の主体となり、必至の情勢である行政サービスが破綻した時に巻き起こる事態は想像に難くない。
 銘々が自己中心的であるのだから、荒廃した雰囲気が社会に充満するだろう。

 このように容易に想像できるような事態について、なにひとつ有効な手立てが打てていないのであるから、どう考えても、ここ3~40年の時代の雰囲気はよいものとなりようがない。
 時代の暗さと文化的成果は比例しない、救いとなるのはそれくらいであるか。


 学生時代、ドゥルーズやデリダを読み囓ったが、何もわかっていなかったのだな、と痛感する。
 彼らが著したことは、今、これからの時代にようやく理解可能になっていくのだろう。
 あれを、存在論の変種と勘違いして読んでいた自分の浅慮さには苦笑いするしかない。
 読み返したいと痛切に思う。
 

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 twitterをしばらく眺めていた。
 消費される言葉にはどうにも馴染めない。

 このツールで、報道にまつわるメディア環境は劇的な変化が予想される。
 マスコミに限らず、既存メディア関係は激変するだろう。
 twitterとブログ、動画、などを組み合わせれば、今の新聞、テレビの代替は充分に勤まる。
 一方で、あのやりとりされる膨大な量の情報については、背筋に寒気が走る事がある。
 顕在化する必要があるとも思えない言葉が、顕在化し可視化する。
 その事の意味合いを計りかねている。
 現在のtwitter報道の良質性は、元々実績がある良質なジャーナリストや著名人が積極的に発信することによって保たれている。
 現実社会でも既に実績があるような人が活躍する場を見いだしたことによって、twitterという媒体そのものの信頼性を高めているとも言えるだろう。
 ごく少数のそうした人々の言葉が、twitter世論を牽引していることは間違いない。
 だが、こうした状況がいつまでも続くものだろうか。
 あの情報の伝播の早さは、どんな反応をも拡大再生産していく可能性と危険性を持っている。
 もう少し、考えてみたい。

 いずれにしても、日本社会の閉塞性が臨界点に近い状態にある事は、よくわかった。
 満足している人間よりも、不満を抱いている人間の方が声高に発信するという点を考慮するにしても、何が起きてもおかしくないようなそら恐ろしさを感じる。
 このような社会状況の時に、こうしたツールが広まることは、吉と出るか凶と出るか。
 おそらくは両方が相俟った状態になるのだろうか、功罪をよく見ておきたい。

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 典型的団塊ファミリーに生まれ育った私であるが、(おそらくはそれゆえに)かの世代のもたらした価値観と生活様式には、すべてと言わないにせよ、大部分について否定的である。
 もし、私の実家が、サラリーマン核家族にありがちな住宅地の戸建てではなく、父の生家なり母の生家のような、父祖より長く受け継がれた家屋であれば、私は実家からこれほど離れた地に暮らすことがあっただろうか、と意味のない仮定を考えてみることがある。
 仮定は所詮、仮定である。
 だが、父や母が、その不便さを理由に簡単に実家を捨てたようには、私は捨てなかっただろう、という確信はある。

 同世代の友人との付き合いがほとんどない私は、これまで自分と同じ年代に属する人々の価値観をほとんど知らずにいた。
 今回、実家へ長くいる時に同世代の家庭持ちと接触し、驚いたのは、彼らのあまりの幼さだ。
 確かに、所帯を持ち、子供を養い、生計を立てているのだが、どこか現実感に乏しいその感覚に、こちら側が訝しく思ってしまうほどだった。
 おままごとのようだな、との思いには、多少の悪意が込められているが、彼らが生活に困窮するような場面に出会った時に、現実に持ち堪えることが可能であるとは思えない。
 その背景には、子供の頃より何不自由なく育ってきた生活環境があるが、より決定的に作用しているのは、これまで社会的責任を要請される場面があまりに少なかったことが挙げられる。
 私たちの親である団塊世代は、自分たちの親世代を否定すると同時に、自分たちが子供に対して親として権威的に振る舞うことを放棄してきた。
 それは同時に、その子に社会的役割と責任を自覚させることを放棄したに等しい。
 その結果、自分のやりたいことを貫くのが何より大切な事だ、という子供じみた価値観をいつまでも持ち続ける大人が出現することになる。
 社会的役割と責任という観点が乏しいため、自分がやりたいことを貫いた結果、生じる周囲の影響にまで慮ることない。慮っていたとしても、どこか現実味に欠けている。
 そんな子供を見ながら、若い世代に媚びる団塊の親は、子供に苦言を呈しもしない。若い世代から「頭の固い年寄り」扱いされることを何より恐れているのだ。
 周囲から要請されることなく、社会的責任を自覚しうる人間など、そうそう生まれることはない。
 下の世代に、社会的役割と責任を要請する事がすなわち権威的な振る舞いであるのだとすれば、上の世代は進んでその任を果たさねばならなかった。
 それを成し得なかっただけで、団塊世代の子育ては充分に失敗であった。
 その失敗は、下の世代にも延々引き継がれ、この先も当面引き継がれていくだろう。
 私もまた団塊世代の親の立派な失敗作である。
 だが、少なくともその事に自覚的である以上、自分や他人が、必要に応じて権威的に振る舞う事を肯定する。本人が望もうと望むまいと、社会的立場と関係性に応じて果たすべき役割と責任は、否応なしに存在するのである。

 これは類型論であり、個人的苛立ちの表出である。

 
 
  

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母病床記1

 続きを書くかどうかはわからないが、1としておく。

 6月末に体調を崩して入院した母が、入院中に再度体調を崩した。

 今度は、もともと疾患がある部分の異変であるので、直ちに致命的な事態に結びつく。

 幸い、今のところは、まだ危篤状態にまでは陥っていないが、慢性病で体の一部が長く蝕まれている人である。回復の見込みは、なんとも言いがたい。

 生きて退院できれば、御の字である。

 致死的な慢性疾患を持つ人間が生きるということは、ただそれだけで、壮絶さを要求されることがある。

 大多数の人間は、壮絶に生きることなど望んでいない。

 ささやかな願い、ただ平穏に日常を続けること、そのことがすでに壮絶さを要求する。

 そこから逃れるには、生きることを放棄するしか、ない。

 医療が発達する前は、その期間はそれほど長引きはしなかったのだろうが、現代においては、かなりの長期に及ぶことがある。

 そのことがよいことなのかどうかは、私は、わからない。

 母が命を永らえてきたのは、紛れもなく医療技術の進歩によるものであり、最先端の医療によって命を救われた、それは事実だ。

 だが、母と同病の人の壮絶な生き様、そして死に様を見るにつけ、いたたまれない気持ちになるのも事実だ。

 そして、それを未来の自分の死に姿と感じながら生きてきた母は、どのように思っているのだろうか。

 ただ穏やかに死にたい、そのことさえ許されない人間は、いったい生きることにどのように耐えるのだろうか。

 考えねばならないのは、超人的な精神を持った人間についてではなく、ごく普通の人間がどのように耐えられるのか、という一点についてである。

 苦しんで苦しんで死ねばいい。

 そういった小山俊一がいた。

 私は、その言葉を自分自身に投げかける強ささえ、ない。

  

 

 

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身辺雑記0717

 夜、雨。
 昨日の炎暑と打って変わって、過ごしやすい天候。

 「世代意識」は、マスコミュニケーションが発達してから濃厚なものとなった。おそらくは、テレビがその機能を最も大きく果たした。
 マスコミュニケーションが普及しない時代においては、世代意識は、然醸成的なものであったろうし、おそらくは、世代よりももっとより身近な地域や職業などの共同体への帰属意識が優先されたであろうから、「世代意識」は、さほど大きな比重を占めていたとは思われない。
 テレビや新聞などのマスコミュニケーションの影響力が凋落している現在、世代意識が希薄になってくるのは当然のことである。

 ・マスコミュニケーションの発展
 ・消費社会浸透によるライフスタイルの画一化傾向
 ・旧来型共同体の凋落

 世代意識を強く持つ世代が登場したということそのものが、上記のような条件を満たした例外的事象であったと考えてもおかしくはない。
 注意するのは、上記条件いずれも、極点にまでは達しない上昇基調にあった時代において、傾向としては最大値となっているであろうという点である。
 すなわち、上記条件が極点に達したバブル以降~現在においては、世代意識は減退へと向かっており、もはや、そのような社会成員の構成を把握することは、不可能となってきている。


 

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 世界に向けて表明しなければならないなにごとかというほどの意見は持ち合わせてはいないけれど、ただひとつだけ、政治的に無邪気な言説にだけは、はっきりとした拒否を表明しておこう、と思うようになった。
 無邪気な言葉から伺われる思慮の無さと、そのことがもたらす結果の重大さがあまりに乖離しすぎているからだ。

 政治的な無邪気さがもたらす帰結の重大さは、悲劇という言葉でさえ陳腐に響く、そんな救いようのない出来事たちだ。

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端唄

■消えた犬
 先日道路脇に繋がれていた犬はいなくなっていた。
 紐もきれいになくなっているところをみると、誰かが連れて行ったのだろう。
 雨に打たれる前で良かった。

■ヒロシばあさん
 以前住んでいた所の知り合い「ヒロシ」さんに似ているから、勝手に「ヒロシばあさん」と名づけている。
 本名は知らない。挨拶をすると、いつも満面の笑顔に最敬礼で挨拶を返してくれる。
 補聴器をつけたお爺さん(ヒロシじいさん)と共に、毎日規則正しく畑に出る。
 季節の野菜と花々で畑はいつも彩られている。
 カラカラコン、という音が繰り返し聞こえたら、ヒロシじいさんが川へバケツを投げ入れて、水を汲み上げている音だ。
 雨が降らない日が続くと、毎朝、同じ時刻にこの音は繰りかえされる。

■端唄
 夫がレンタルしてきた端唄を聞いている。
 定型的な、月並みな言葉とイメージを繰り返し、情景を浮き立たせる手法は見事。
 けれど、どこまでも言葉とイメージだけがのたりくたりとたゆたう。
 この心性はどこから来るのか。

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都市空間に

夏の暑い日、浜離宮恩賜公園を散歩した。
半端に手入れされている庭は居心地が悪く、これならばもう、樹木の生い茂るにまかせて、草刈だけにしてしまえばよかろうに、と思った。
後日、ちょうと吹上御所の森の様子を撮したテレビ番組を見る機会があり、恐らくは当時の一流の庭師が作ったに違いない日本庭園が、ものの見事に森に侵蝕されている様子を見て、不思議に心地よい、痛快な感じさえ抱いた。

浜離宮のすぐ側は、汐留再開発地区にあたったところらしく、真新しい高層ビルが幾層にもそびえたっていた。
電通ビル、日本テレビタワー、CONRAD Tokyo、「威容」という形容さえ相応しいこれらの塔に比して、浜離宮は貧相さが際立つような気がした。
だが、考えてみれば、私がそのように感じた原因は、浜離宮にあるのではない。
背後にそびえる人工物と浜離宮との対比がそのように感じさせたのだ。

浜離宮の木々は、外周部分においては、ほとんど森の様相を呈している。
シイやクス、カシ類が大きく生長し、人間が下に入れば、確かにそれは巨木である。
だが、電通ビルに比べれば、ミニチュアにしか過ぎない。

同じことは、有楽町にある東京国際フォーラムを訪れたときも感じた。
建物の間の公共スペースには、ケヤキなどの高木が列植され、人々に木蔭を提供していた。
だが、建物全体の大きさに比べれば、この木々は皆、おもちゃのようなものである。

いや、たぶん、この言い方は正確ではない。
私が言いたいのは、「大きさ」のことではない。存在の比重のことだ。
巨大な構造物に囲まれた植物たちは、植生的には高木であるにも関わらず、プラスチックのように思えた。
私がふだん眼にし、直に触れる木々とは異質なものであるように感じられた。
この事が何を意味するのか、よくわからない。
けれど、ひとつ確かなのは、私の中にある、漠然とした不安感がより切迫した危機感へと変質したということだ。
すべて間に合わない、という状況の中で、それでも何かを選択しながら生きるのは、美意識の問題だ。

これらの巨大な構造物を見て、ハイバーコンシューマリズムの醜悪さを言い立てるのは、極端に過ぎる、とは自分でもわかっている。だが、私には、どうしてもあの建物たちを美しいとは思えないのだ。
あの美しくない建物の中で日常を過ごす人間に、プラスチックのような高木たちはどのように写っているのだろう。

Hamarikyu


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台風一過

■台風一過

台風一過、あちこちで色づき始めた稲穂がなぎ倒されている。
水の引いた田んぼでは、収穫時期と同じくらいの人手で、倒れた稲を束状に結び、起こしている。
水はけの悪い田では、穂の部分まで冠水してしまったところもあるようだ。
既に収穫をあきらめたのか、刈り取られていた田もあった。
皆、せっせと動いているが、どことなく呆然とした風体がある。

■犬
いつも行き帰りに使う道路、これから山道にさしかかろうという橋の上で、欄干に一匹の犬がつながれている。
毛足の長い大型犬だが、表情は優しく、人なつっこそうだ。
誰かが捨てていったに違いない。
山道を走ると、ときどき、犬が自動車の後を付いてくることがある。
飼い犬だった犬が、飼い主が迎えに来てくれたと思うのだろう。
たいてい、表情は優しげな犬ばかりだ。
あの犬もそうなるのだろうか。
誰か、拾って帰るだろうか。

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